[歴史発想源] <和魂の酋長・南洋雄飛篇>第三回:目指すは政治から貿易へ「南進論」

ベンチャー人生への転機が、突然訪れる…!

政治の世界を志して上京してきた、土佐生まれの若き書生・森小弁。泥沼の政争に明け暮れる近代民主主義の現実に失望しかけた時、机の上に無造作に置かれたある物体を目にしただけで、その後の人生を大きく変えるほどの衝撃を受けます。

そしてそこから、我が国の南洋開拓の歴史は大きく変わっていくことになります。さて、そのある物体とは…?

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南太平洋と日本の架け橋となった日本人の大酋長・森小弁の生き様を描く「和魂の酋長・南洋雄飛篇」(全8回)、第3回をどうぞ!

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▼歴史発想源「和魂の酋長・南洋雄飛篇」〜森小弁の章〜

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【第三回】目指すは政治から貿易へ「南進論」

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■日本の民主主義の夜明けにも失望

自由民権運動が激化した「大阪事件」に加わって監獄での少年時代を送った、土佐出身の森小弁。

模範囚として早めに出獄した20歳の彼は、1889年(明治22年)8月、同郷の政治家・大江卓を頼って、ついに上京することになりました。

無事に東京へとやってきて、大江卓邸で書生として働くことになった森小弁は、大隈重信が設立した東京専門学校(早稲田大学の前身)に通い始め、政治学を勉強するようになりました。

しかし、森小弁は一年足らずでこの大江邸から離れることになります。

大江卓は、翌年の1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に岩手県から立候補し衆議院議員として当選を果たすのですが、以前に連座した「立志社の獄」事件の絡みで、その身辺が狙われているという噂が立ちました。

自分の身に危険が及ぶことを感じた大江卓は、将来有望な若き書生の森小弁を危険に巻き込むことのないよう、妻である小苗(さなえ)の実家に預けることにしたのです。

森小弁は、大江卓の妻の実家へと移ることになります。

この大江卓の妻・小苗こそ、明治維新の立役者、後藤象二郎の娘でした。

つまり、森小弁が次に預けられたところは、後藤象二郎の邸宅だったのです。



後藤象二郎は前回の第二回でお伝えしたとおり、土佐藩の元藩主・山内容堂の腹心で、坂本龍馬の立案した「船中八策」に基づいて大政奉還案を実現させた大人物。

その後も明治政府で数々の要職を歴任し、日本の政治の中核を担っている政治家です。

森小弁は、その後藤象二郎邸の書生となりました。

当時の後藤象二郎邸は、現在JR品川駅を降りて高輪口から出た目の前に広がる、グランドプリンスホテル高輪や品川グースなど、ホテルが乱立している一帯を敷地とする大豪邸でした。

そんな超大物の政治家の邸宅の書生となった森小弁は、雇い主である後藤象二郎の政治の手腕を間近で実感していくことになります。



しかし、それは青年・森小弁にはショックの連続でした。

この頃の後藤象二郎は、政治家としては絶好調でした。

かつては征韓論の論争に敗れて板垣退助や西郷隆盛らと共に明治政府を去り、板垣と自由党を結成するなど自由民権運動を主導している身だった後藤象二郎。

ところが、第2代総理の黒田清隆内閣において突然、逓信大臣として任命されることになります。

つまり、後藤象二郎は政界を下野して反政府側の自由民権論者たちの味方を演じておきながら、今度はいきなり政府側の人間へと転身したわけです。

そして、第1回帝国議会が開会された際、政府予算案審議で政府案に反対の立場だった野党から、大勢の土佐派がいきなり裏切って政府案に賛成。

その土佐一派を一斉に買収した黒幕も、やっぱり土佐出身の大臣・後藤象二郎だったのです。

政治家として生き残るために、後藤象二郎はあらゆる汚い手を使っていたんですね。

初の衆議院議員総選挙、初の帝国議会の開催などで、近代民主主義を歩み始めたかのように見えた日本の政治は、実は凄まじくスキャンダラスなものでした。

正しい主張をしても脇の甘い者は葬り去られ、裏で手堅く汚いやり取りをしていた者が生き残る。

そのような政界での闘争や裏切りを間近で見ながら、理想の政治を夢見ていた森小弁は、「日本の政治の現実とは、かくも汚く醜いものなのか」と、その実状に大いに失望していくのです。…

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