[歴史発想源] <和魂の酋長・南洋雄飛篇>第四回:邦人未踏の南の島へ「天祐丸」

原価計算や在庫予測の概念もない、そもそも貨幣経済すらない…! そんな未開拓の発展途上の地で、あなたは新規マーケット開拓を成し遂げることができるでしょうか?

吹けば飛ぶ木の葉のような小型帆船「天祐丸」に乗って、南太平洋の荒海へと飛び出した若き森小弁。言葉も通じない、貨幣経済もない、信頼もなく武器を持って取り囲まれてしまう、そんな危険な未開の島に一人降り立ち、森小弁のビジネス確立の奮闘が始まります!

経営者・マーケティング担当者向けメディア『ビジネス発想源 Special』で連載中の、歴史上のエピソードから現代ビジネスの経営やマーケティングに活かせるヒントを見つけ出す人気コンテンツ「歴史発想源」。

南太平洋と日本の架け橋となった日本人の大酋長・森小弁の生き様を描く「和魂の酋長・南洋雄飛篇」(全8回)、第4回をどうぞ!

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▼歴史発想源「和魂の酋長・南洋雄飛篇」〜森小弁の章〜

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【第四回】邦人未踏の南の島へ「天祐丸」

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■天祐丸、荒ぶる南太平洋を渡る

後藤象二郎邸で椰子の実と共に出会った日本初の南洋冒険家、後藤猛太郎の紹介で、森小弁は後藤象二郎の邸宅を去り、「一屋商会」というベンチャー起業に入社した森小弁。

彼が門を叩いた一屋商会という会社は、東京府会議員を勤めていた田口卯吉(たぐち うきち)が、大政奉還後に江戸幕府がなくなって生活苦に陥った旧武士階級の生活救済事業として1890年(明治23年)に立ち上げた南洋貿易会社です。

ただ、そのような背景のある会社だったので、ガツガツ儲けるための企業というよりも、元公務員の失業を受け入れるという旧士族の不満対策のような会社でした。

所有している船も、今や大型汽船の時代というのに、かつて土佐藩が建造したボロボロの中古帆船「天祐丸」だけ。

資金も人員も潤沢ではない小さな会社でしたが、若き森小弁は、南洋への貿易へと夢を膨らませ、設立されたばかりでまだ先も見えないこの零細企業に迷わず飛び込んだのです。



森小弁が一屋商会に入社した1891年(明治24年)、その天祐丸が貿易のために南の国々へ向かうというので、森小弁も張り切ってその天祐丸の航行に同乗することになりました。

南洋の貿易に必要な道具もよくわからず、持ち込んだ自分の私物と言えば、家宝である日本刀一本だけ。

22歳の森小弁、いよいよ南太平洋へと出発です。

森小弁の父・可造はかつて土佐藩の船奉行でしたから、亡き父の旧職場で建造された天祐丸に乗るというのは、森小弁にとっては数奇な運命でもありました。

とは言っても、天祐丸の船体はわずか91トン。

ちなみに、1860年に勝海舟が太平洋横断をしたことで有名な蒸気帆船「咸臨丸」が約380トン。

つまり、天祐丸はあくまでも日本近海用の帆船であり、遠い外洋の航行に向いている大型船ではなかったのです。

この航海は、思いっきり危険極まりない船旅と言えました。

そしてその時の天祐丸は、南太平洋で大型台風に直撃し、航海に最も重要だと言える飲み水を全て失う、という絶体絶命のピンチにも見舞われます。

森小弁を含めわずか9人だけが乗った天祐丸は、まるで荒れ狂う激流に浮かんだ笹の葉のように、転覆必至の危険な状態のまま太平洋を渡っていったのです。



しかし、天祐丸は奇跡的に荒海を乗り越え、また暴風雨の際に貯めたいくらかの雨で渇きを凌ぎ、翌1892年(明治25年)、森小弁たちはカロリン諸島のポナペ島に無事に到着します。

ポナペ島とは、現在ポンペイ島と呼ばれている島で、現在はミクロネシア連邦の首都となっている島。

当時、「南進論」の盛り上がりを受けて、このポンペイ島やパラオなどには既に日本人がある程度入植しており、交易も確立されていました。

天祐丸の乗員の何人かは、ポナペ島で降りてそこをビジネスの拠点にしました。

そして彼らを降ろした天祐丸は、さらに未開の島へと向かって出航します。

森小弁もまた、その船上に残っていました。

既に日本人が販路が開拓している場所ではなく、日本人がまだ行ったことのない未開の地を見てみたいという欲求が、心の中に湧き上がっていたからです。…

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