日本人:貝塚のモースの驚き~武田邦彦集中講座



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◆親日家エドワード・モースが驚いた、世界でも類を見ない日本人の道徳性

大森貝塚を発見したエドワード・モースは、ことのほか日本びいきで、明治10年6月に横浜に上陸して、開通したばかりの横浜―汐留間の汽車に乗り、大森を過ぎたあたりで貝塚を発見しました。

その後も彼は日本に特別の親近感を持ち、家族と一度、さらにお一人で一度、来日され、日本の文化を正しくアメリカに伝える努力をした親日家でした。

そのモース、貝塚のモースとして知られている彼は、来日中に観察した日本を巧みな絵と文で記録し、「日本人の住まい」などの著作物を残していますが、その中に、「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使は一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ・・・」とあります。

明治の初めの日本の家屋といえばもちろん木造で、家の中は障子と襖(ふすま)、鍵などはまったくかからない、というより、日本は亜熱帯気候で少し湿度が高い土地柄であることから、朝起きたら雨戸をあけ、障子や襖は日中は開けっ放しにするのが常でした。

その意味では現代にいうプライバシーというのはありませんでしたが、その代わり「他人の部屋をのぞいてはいけない」という不文律もあったのです。例えば、女性が部屋で着かえるときにはそっと襖を閉めるだけでよく、もし男性の不心得者が、女性が着かえるところを覗き見ようとして襖でも明けようものなら、同僚の男性に殴られるということで社会の規律が守られていたのです。

「女が着替えるところを見ようなんて!男の風上にも置けぬっ!」というわけです。

でも、江戸時代の男性と女性の関係については、また別の機会に詳しく書きますが、極めて厳密にTPO(time=時、place=場所、occasion=場合)が守られていました。いくら昔でも男性と女性だから、お互いに知りたいし、特に男性は女性の容姿や裸体に興味があることは今も昔も変わりません。そんな記録は文章でも春本(色本)にも浮世絵にも書かれていることです。

でも、男女の夜の密会とか、夫婦の秘め事などの場合はそれなりなのですが、昼間とか、共同の場所などでは、まったくその素振りを見せないのが日本男児だったのです。

エドワード・モースも同じように日本人の男性の「奇妙な行動」に驚いています。

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