『宇宙戦艦ヤマト』のもっていた二重のドラマ構造

 今さら強調するようなことでもないが、自分が趣味的にも職業的にもアニメに深入りする契機になったのは、1974年の『宇宙戦艦ヤマト』からである。であれば「ヤマトの何がそんなに良かったのか?」という質問にも答えを用意しておきたい。だが、なかなかこれを明瞭に説明するのが難しい。

 とは言うものの、ごく一断面であっても折りに触れて語っておいた方が良いかなと思うことも多くあるので、ここでは『宇宙戦艦ヤマト』における「ドラマ構造」の話を(ごく粗っぽいかたちで)しておこうと思う。

 この10年近く「アニメはなぜ面白いか」という疑問について根源的なことを調べてきた。そこで明らかになってきたのは「ストーリー」と「ドラマ」が、実は別の次元に属しているという驚くべき事実である。

 「ストーリー」とは起きる事件を論理的に整列したものであり、そこには意味づけや整合が優先される。「ドラマ」は事件の中で起きる登場人物の心理の動きであり、日本では「葛藤」と位置づけられている。これだと内面的にもつれてモヤモヤした悩みのことであったり、人間関係のことや恋愛の話だと解釈されがちだが、実はハリウッド的なシナリオ学で使われている「コンフリクト(衝突)」の方が正しい理解への手引きとなる。

 つまり、ドラマとは何かを遂行・成就しようという行為に対し障害が発生し、衝突したカベ乗り越えようとするところに発生する「情」のことである。この「情の問題」に直面した観客が、どう登場人物に感情移入できるかできないか、つまり「ドラマに対するシンクロ度」が実は「面白いかどうか」に直結しているのである。そしてドラマを深めるとストーリーが止まり、ストーリーを進めるとドラマが停滞するという、相互はそうした関係にある。

 この前提で考えると、『宇宙戦艦ヤマト』は確かにストーリー(物語)や設定もよくできてはいるが、本当に「面白い」と思っていたのはドラマの方であって、その「構造」にこそ着目すべきではないのかと、そんな疑念も浮かびあがってくるようになる。

 ヤマトのストーリーは、50文字程度にまとめれば「侵略者によって滅亡寸前に追い込まれた地球を救うため、宇宙戦艦ヤマトに乗り込んだ若きクルーたちが14万8千光年の彼方、イスカンダル星への旅をする」ということになる。だが、このストーリーラインそのものにドラマ要素は乏しい。

 ヤマトのドラマはどこにあって、それはどういう種類のものなのか。そこへ一歩踏み込むために、エンターテインメント映画のテキストなどをサブテキストにしつつ考察してみると、『ヤマト』には実に興味深いドラマ構造があることが分かってくる。

 映画の構造はいくつかに分類可能であるが、自分なりに重要と思っているのは大きく2つである。ひとつは「グランドホテル形式」であり、もうひとつが「ロードムービー」である。前者は舞台劇のシチュエーションコメディなどの末裔で、一幕ものと言われる大きなセットを置き、そこの中で役者が出入りすることで劇の変化を生み出す作劇法だ。特に「グランドホテル」はレギュラーのホテル側一同とそこへの来訪者(ゲスト)の間に発生する新たなコンフリクトが即ドラマに転化するという構造をとっている。

 一方の「ロードムービー」とは、語源的には「路(ロード)」を写している映画のことであって、「旅もの」と訳される。主人公たちが移動することで、その眼前に新たな街なり家なりが現れ、そこで遭遇する人との間にコンフリクトが発生する。場合によっては人との間だけでなく、走破できない状況そのものがコンフリクトの生成源となり得るので、人間対人間だけでない作劇も可能である。

 ということでたとえば70年代のTVアニメを解析してみると、「グランドホテル型」の代表は『マジンガーZ』である。光子力研究所という定点に機械獣というゲストが来訪することで、その戦いが即ドラマに転化する構造をとっている(戦闘場所を変える例外もあるが概して面白くない)。一方、「ロードムービー型」の代表は『海のトリトン』であって、主人公たちが海洋を遍歴する中でのゲストとの出逢いがドラマとなっている。

 その流れで『宇宙戦艦ヤマト』の構造を分析してみると、どういうことが浮かびあがるのだろうか。筆者が最初に気づいたときには軽い衝撃が走ったが、実は「グランドホテルがロードムービーする」という二重のドラマ構造をとっているのである。

 全長300メートル弱に及ぶヤマトはそれ自体が巨大な建造物であり、内部には数百名のクルーがいる。それは小世界であり、ひとつ小さな社会でもあるからには、隊員同士、人と人の間にもドラマが発生する。ところがヤマト全体が「旅」をしているため、移動そのものもドラマを発生させる。ヤマトの行く手を阻むガミラス軍の迎撃部隊や、あるいは宇宙機雷、アルファ星などのさまざまな障害がすなわちコンフリクトを生む。

 この構造が面白いのは、ドラマを生成させる軸が二本となることで、その結果として立体的な作劇が可能となることである。つまりヤマトの旅の針路が縦軸だとすると、ヤマト艦内は横軸に相当する。

 この両軸の合わせ技が効果的に作動しているのが、たとえば第13話や第14話であろう。第13話ではヤマトの針路にいたガミラス戦闘機部隊と交戦、捕虜を艦内に入れることでそこでゲストと主人公・古代とのドラマが発生する。第14話ではヤマト自体がオクトパス星団で足止めを食らうことで艦内が動揺し、特に古代と島の間で感情がぶつかり合うことがドラマになり、共感を生む。

 こうした作劇構造が生み出す「情」とその「機微」の集積が、実は『宇宙戦艦ヤマト』の一番面白い部分だったのではないか。というのは全26話を再編集し、1977年に劇場版として公開されたものがさっぱり面白くなかったからである。「ストーリー」としては重要なエッセンスを余すところなく取りこみ、ビジュアル的に見応えのある「イベント」を配していて、構成論としては間違ってはいない。しかし、すべての要素の取捨選択をストーリーと戦闘を追うこと第一義にしすぎて、結局は「ドラマ」が薄くなってしまった。

 ドラマが薄い事例は、TVシリーズ第10話の太陽圏に別れを告げるエピソードが、単に「別れを告げるシーン」だけに置き換えられていた件である。TV版ではヤマト艦内でも係累がすべて死んで天涯孤独となった古代と沖田艦長、それ以外のクルーとの間にも共感とコンフリクトがあった。その上で、ヤマトが前進すること、すなわち地球との距離が開いていくことや、ガミラスの迎撃部隊に近づくこと自体もドラマになるという、作劇となった。こうした「情」の問題が複雑に絡むことでより上位のコンフリクトを発生させ、シリーズ全体にも重要な味づけを与えていたわけだ。劇場版でのシークエンスが、悲壮なまでに重い、あの味わいに遠いのはこの構造を無視した結果なのである。

 実際、『さらば宇宙戦艦ヤマト』以後の展開を考えてみても、「面白い」と思えるかどうかには、要所要所でこの構造論が絡んでくる。たとえばヤマトに空間騎兵隊の面々が乗り込んでくるとか、ヤマトの針路にアンドロメダが立ちはだかる(ヤマト2)とか、ヤマトの二軸構造がうまく作動していたものが、「面白い」と印象に残った場面に多いのではないだろうか。『ヤマト3』が旅ものとしての性格が薄く感じられるのも、ヤマトの針路がブレているからだろう。そうするなら『スタートレック』のように艦内の人間関係の方をシチュエーションもの的舞台劇に強固にすべきで、実際に新キャラを大量投入したのもそのために違いないが、デスラーとのドラマに持っていかれた感もあり、そうした点が惜しいとも思うわけである。

 この種の再点検にも、ドラマ構造論で切ってみることは役にたつはずだ。

 実は『宇宙戦艦ヤマト』の二軸ドラマ構造は、『機動戦士ガンダム』(79)以後の「寄り合い所帯の船に大勢集まって、敵に追われて右往左往、逃亡の旅をする」という富野アニメの基本にちゃっかりと据えられたりもしている。ただし、針路がぴしっと決まった最初のヤマトほどの緊張感あふれる二軸ドラマは、その後のヤマト続編も含めてなかなか再現されていない。

 であれば、ヤマトのこうしたとこにも、まだ多くの鉱脈が眠っていると思うのだが、いかがであろうか。また折りをみて考察を深め、ヤマトに眠るこうした魅力の源泉を掘りあててみたいものである。

【2009年4月6日脱稿】初出:同人誌(むらかみみちお氏による)