連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」 町口覚と「TOKYO Before/After」展

2018年3月25日に写真集食堂めぐたまにて開催された「飯沢耕太郎と写真集を読む」

今回は、マッチアンドカンパニーの町口覚さんをお招きしました。グラフィックデザイナーとして、パブリッシャーとして今まで手がけてきた写真集の話、そして、飯沢耕太郎さんがキュレーションを担当し、町口さんが会場構成とカタログのデザインを担当した、「TOKYO Before/After」展(国際交流基金・主催)についてお話していきます。

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(※対談は有料版となっておりますが、冒頭のみ無料でお読みいただけます)

【目次】

◆20代、確信と覚悟 ―『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』(1995年)

◆コイツの写真集を ―佐内正史『生きている』(1997年)、『銀河』(2018年)

◆Mレーベル、パリ・フォトへ ―森山大道『auto-portrait』(2010年)、『Sunflower』(2011年)

◆TOKYO Before/After



「飯沢耕太郎と写真集を読む」はほぼ毎月、写真集食堂めぐたまで開催されています。(これまでの講座の様子はこちら

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 (2018年3月25日開催・写真/文 館野 帆乃花)

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飯沢: 今日の「写真集を読む」は、マッチアンドカンパニーの町口覚さんに来ていただきました。といっても、まだ現れないですね……(笑)。待っている間に彼の紹介をしておきましょう。

町口さんは、グラフィックデザインの世界、特に写真集のデザインにおいて、今一番、日本の伝統を受け継いだ仕事をしている方だと思っています。日本の写真集というのは、グラフィックデザイナーと写真家が非常にクリエイティブなコラボレーションをしていくという伝統があります。ロバート・フランクの写真集、『私の手の詩 The Lines of my Hand』(1972年)の装幀をした杉浦康平さんであったり、細江英公の写真集『鎌鼬』(1969年)を手がけた田中一光さんであったり、彼らが素晴らしい仕事を残した時代があって、町口さんはその正統派の後継者と言っていいでしょう。

今日のテーマは2つありまして、1つは彼の仕事について。私は彼が20代の頃から知っているので、彼が最初に手がけた写真集の話からしていけたらと思っています。もうひとつは、最近町口さんと一緒に仕事をした「TOKYO Before/After」という展覧会についてです。「TOKYO Before/After」展は、国際交流基金主催の展覧会で、4月にカナダのトロントで開催されます。この展覧会はトロントを皮切りに5年くらいかけて、世界中のおよそ50カ所で開催される計画です。私はこの展覧会のキュレーションを担当し、彼には展覧会で配布するカタログのデザインと会場構成をやっていただいたので、その話をしようと思っています。今日は、今回の展示の額装をしてくれたPOETIC SCAPEの柿島貴志さんにも来てもらっています。あ、ちょうど来ましたね。今ちょっと挨拶をしていました。

町口: すみません! 遅れました! 人が多いですね〜! とりあえず、コーヒーをもらえますか……。朝早くから集会みたいですね(笑)。 



飯沢: 昨夜はずっと飲んでいたんですか?

町口: 昨日の夜は、森山大道さんと一緒で。今、雑誌の『Coyote』で大道さんの特集をやっていて。

飯沢: その打ち上げ?

町口: トークショー。終わってから会場でご飯を食べたんだけど、大道さんが珍しくモリモリ食べて(笑)。

飯沢: トークをしていたのか! それは、今日は朝早くて大変だったね。今説明していたんだけど、今日は2つテーマがあって……。

町口: 飯沢さんと話すと楽ですね。大道さんはあまりご自分から話さないから俺がトークを回さないといけないから。

飯沢: はいはい、今日はゆっくり質問に応えればいいからさ。



◆20代、確信と覚悟 

―『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』(1995年)

飯沢: 前半は、町口さんのこれまでの仕事について話していきたいと思います。とにかく最初はこれを紹介したいんだよね。『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』(1995年)。これ、大事でしょ。

町口: うわ、嬉しい! 当時俺、飯沢さんにこれを送ったんですよね。

『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』(1995年)

(左から、柿島さん、飯沢さん、町口さん)



飯沢: 1995年というと、23年前。

町口: これを作っていたときは23、4歳でした。

飯沢: この『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』は、40人の写真家たちの作品が1枚ずつ額に入っていて、ボルトを外して開くと1枚1枚見られるようになっています。ボルトを締めれば額装の写真として飾れるという変わった写真集。

町口: この額、自分で作ったんですよ。飯沢さんには手紙を添えて送ったの。そうしたら、手紙を返してくれたんだよね。当時、俺のなかでは『デジャ=ヴュ』の飯沢。まだ面識もなくて、俺も全くの無名だったのに、返事くれたの。嬉しかったな〜。

飯沢: 私が編集長をしていた『デジャ=ヴュ』(1990年〜1995年)という写真雑誌があって、それがちょうど終わった頃でしたね。デザイナーとしてやっていく上で、まずはこれを作ろうと考えたわけだ。

町口: 暇だったんだよね、俺。これを作るのに同世代の写真家300人くらいと会いました。この頃に独立したんだけど、全然仕事の電話がかかってこないから、電話線を抜いたり入れたりしたことがありましたからね。この電話は本当につながってるのかなって(笑)。

飯沢: それで、こんな形の不思議な写真集を作っちゃったと。今となってはどこに行ってしまったのかわからない人もいるんだけど、逆にすごく活躍している写真家がたくさんいますよね。

町口: イチローの打率より良いと思いますよ。7割くらい打っているんじゃないかな。長島有里枝さん、大橋仁さん、ホンマタカシさん、熊谷聖司さん、大森克己さんもいるし、野村佐紀子さんも。当時、グラフィックデザインの世界があまり面白くなくて、デザイナーの友達なんて全然いなかったのね。一番面白いと思う人間が写真を撮っている人間だった。だからこれはある種、これからの友達を増やそう作戦。同世代の写真家に徹底的に会うんだって決めて、紹介してもらいながらネズミ講的に会っていって。当時はメールなんてないし、会いにいかないといけない。会って、撮っている写真を見せてもらうっていうのを、1日5セットとかやっていました。アスリートだよね(笑)。

飯沢: それは今でも基本になっているんじゃないですか。

町口: 基本ですね。

飯沢: 写真を見ているだけではわからないことがあって、会うと全然違うからね。目の付けどころが良くて、動物的な勘、本能的な嗅覚みたいなものがちゃんと働いていたことがよくわかる写真集だと思います。「これからコイツらと組んで、良いもの作っていきたいんだ」という志が伝わってきます。

町口: 覚悟ですね。

『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』(1995年)



飯沢: 24歳でもう独立していたのですね。

町口: 高校でグラフィックデザインの勉強をして、社会に出ました。神奈川工業高等学校っていう細谷巌さん、浅葉克己さんといったデザイナーが卒業した高校で。そのあと、美大には行かずに、デザイン事務所に入って、そこで師匠の浅川演彦さんに出会い、一度広告会社でも働いたけど、24歳のときには独立していましたね。

飯沢: お父さんもグラフィックデザイナーなんですよね。町口忠さんという、なかなか良いデザイナーで、横浜市の都市計画に関わったりしていた方です。横浜市の仕事のときに牛腸茂雄さんの写真を使っているんだよね。

町口: そうなんですよ。

飯沢: 田村彰英さんも。そういう写真家と仕事をしたデザイナーの息子。

町口: 子供の頃の親父の仕事場の印象は、悪の巣窟ですよ(笑)。酒と煙草と……。山崎博さん、田村彰英さん、飯田鉄さんのような写真家と集まっては、ああでもねえ、こうでもねえ、って感じで話していたところに俺はいたんですよね。あっ! ちなみに弟もグラフィックデザイナーです(笑)。

飯沢: もう、DNAだよね。

町口: そういう意味ではサラブレッドですからね。親父から聞いた話だと、写真作品を作るだけでは食べていけないからって、牛腸さんに横浜市の仕事を頼んだみたいで。だけど、横浜市からは撮影費ではお金が落ちないと。だから親父は牛腸さんの撮影費を、道路局の仕事で道路を何メートル引きました、っていう請求書で請求したんだって。牛腸さんって、体が不自由だったでしょ。道路引けるか! って話ですけどね(笑)。

飯沢: アートディレクション費なんてなかった時代ですね。

町口: 都市計画の仕事なのに、そうしないとお金が落ちない。それだけ日本が遅れていたんですよね。1950年代に出版されたニューヨーク・マンハッタンの都市計画書があるんですけど、そこに載っている写真なんて、ロバート・フランクやウィリアム・クラインなど、往年のアメリカン・フォトグラファーの写真をいっぱい使っている。日本とは絶対的な差がありますよね。そういう話を悪の巣窟で、「これからの写真家はどうやっていけばいいか?」とか、集まって話していたんだと思います。真面目にね。

飯沢: 素晴らしい環境としか言いようがないね。私が初めて会ったとき、町口さんは20代だったと思うけど、そんな環境で育っているからいろんなことを知っていてさ。なんというか、確信的でしたよ。こんな、いちいちボルトを抜いて入れ替えないといけない扱いにくい写真集作って(笑)。私が持っているのは、ボルトが一本、どこかにいっちゃったんだよね。私は町口さんから頂いたのだけれども、当時は売れたの?



町口: 血と汗と涙でいっぱい(笑)。でもこれ、当時一万円で売ったんですけど、完売しましたよ。リュックに入れて担いでいっぱい書店まわりしたもん。これ判型が大きいじゃないですか。いまだにあの書店は嫌いなんだけど、売り込みに行ったら裏の事務所に連れて行かれて、「君が持ってきた本は大きいよね。四六判って知ってる? これをうちの書店に置くでしょ。そうすると四六判の本が4冊並ぶのよ」って言うわけ。「どう思う?」とか言われて、「いつか殺してやる!」って思いましたね(笑)。その一方で別の書店では、「町口さん! これは素晴らしいですね! じゃあ、委託で5冊と、買い取りで5冊」って言ってくれて、俺もう、泣きそうになってね。そういう人もいるわけですよ。頼まれてもあの書店には置かないもんね(笑)。自分で作ったものを自分で届けると、血となり、肉となる。今の時代、デザインするだけだったら、誰だってそれなりにはできる。そうじゃなくて、自分が作ろうと思ったものを作って届けるところまでやりたいと思っていますね。最近だと海外まで行っちゃってますからね。



◆コイツの写真集を

―佐内正史『生きている』(1997年)、『銀河』(2018年)

飯沢: 私にとって、「町口覚」のイメージは、まずは『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』で、次がこれ。佐内正史の『生きている』(1997年)。これで、この人はただ者じゃないと認識しました。私はこの頃に佐内と町口に初めて会ったのですが、2人の会話が、何を言っているのか全然わからなかった。完全に2人だけに通じている言葉でしゃべっていて、双子の兄弟みたいだったね。

佐内正史『生きている』(1997年)



町口: 今でもそうかも(笑)。

飯沢: なんだったの? この頃の2人の関係は?

町口: 『40+1 PHOTOGRAPHES PIN-UP』を作った時にはまだ出会っていなくて、熊谷聖司が、「マッチ、一人紹介したいやつがいるんだよね」って、連れてきたのが佐内だった。

飯沢: 佐内は写真新世紀でHIROMIXと同期なんだよね。1995年。グランプリはHIROMIXに取られてしまって、静岡から出てきた佐内は、工事現場で働きながら写真を撮っていましたね。あの頃の佐内は尖っているどころじゃない、針みたいなやつだったよね。

町口: 全身が針だった。

飯沢: 触れるとこっちも痛いけど、彼も血を流しているっていう。

町口: それを記録したかったから、『生きている』の最後のページに佐内のポートレートを入れた。撮っているのは大森克己さんです。



飯沢: 大森さん、さすが。上手いね。

町口: 佐内とは、当時の俺の仕事場で初めて会って、写真新世紀に出した<trouble in mind>のシリーズを見せられたのね。それでやばいなコイツ、と思って。コイツの写真集を作らなければ、俺には先はないと直感した。といっても2人とも無名だから、サウチマサシとマチダサトルって呼ばれたりしてね。佐内正史も町口覚も、誰も知らない。金もない。「佐内、いくらある?」って聞くと、「250円」とかさ。本当に、2人して。

飯沢: フィルムを買うお金がないから、佐内は空撃ちで撮っていたんだよね。空撃ちでわかるんだって。

町口: そうそう。フィルムが入ってないのにシャッター音だけがデカくて、バッシャ!! って撮って、「撮れたっ!」とか言っている。「フィルム入ってねぇじゃん!」って言うと、「いや〜、今のは良いのが撮れたね」って佐内。本当に金がなかった。

飯沢: デザイナーと写真家の関係も色々あって、写真家が主の場合も、デザイナーが従の場合もあるでしょ。逆の場合もあるよね。ケンカをすることもあるし、上手くいって蜜月関係ということもあるだろうし、写真集って、いろんな関係のなかから生まれてくるわけだけど、『生きている』を作っているときの町口と佐内の関係はちょっと特別だったんじゃないかな?

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