第二次大戦後に旧ソ連に抑留され、収容所などで亡くなった元日本兵捕虜557人分の名簿が先日、厚生労働省のホームページに公開された。今回公表されたのは、厚生省が平成28年度にロシア側から入手した11件の名簿を翻訳・整理したものだという。
日本人抑留者の死亡名簿はこれまでも何度か公表されてきた。第二次大戦後の最大の悲劇のひとつは、旧ソ連が満州(現中国東北部)や樺太などから日本兵ら約60万人をソ連領や当時ソ連統治下にあった中央アジアの収容所に連行したことだ。いわゆる“シベリア抑留”で、捕虜となった日本兵などは極寒のシベリアで鉱山や道路建設などの労働使役に駆り出され亡くなった人が多い。劣悪な生活環境の下で1日10数時間の強制労働を強いられ、抑留期間は最長で11年間に及び、約5万5千人が現地で死亡したと推計されている。
このシベリア抑留の死亡者名簿の調査については1991年に旧ソ連から公的な記録を受け本格化した。といっても公表された名簿は▼アオヤマケン▼イマイツィト▼イシダツンワ▼タカヤスィタカキラ――など全て片仮名で書かれており、実に素っ気なく、この名簿から身元を特定することはほとんど困難だ。厚労省は身元が特定できていない死亡者の公表を控えてきたが、2015年4月から翻訳した名簿を公表する方針に転換したという。そうした方針を受け、今回初めて氏名を公表したシベリア地域の8人を含む16人の身元を特定し、漢字や出身地などを発表した。
しかし、今回の発表された氏名を見て驚いたことは、なぜ今まで全ての氏名を公表し、全国民に心当たりの人がいないか、などの呼びかけをしてこなかったのか、ということだ。シベリアに抑留された人々については戦後のある時期まで全国民の関心の的だったし、特に家族の心配はいかに大変だったか、想像がついたはずである。個人が特定できるまで公表しないという発想は、いかにも官僚的で、一刻も早く知りたいという抑留者家族の心情をまるで無視したものといえよう。
私はウズベキスタンに抑留され劇場建設に従事させられた約500人の戦友会である「第4ラーゲル会」と縁を持ち20年前にNPO日本ウズベキスタン協会を設立した。隊長だった永田行夫氏(大尉で当時24歳)は、日本に送還される前に隊員の名前・住所などを全て暗記し、帰国すると直ちに家族に安否を連絡した。それがきっかけとなり09年まで第4ラーゲル会の集まりが毎年催され、私も参加したことがある。しかし、今や第4ラーゲル会の方々はほとんど亡くなってしまった。早くから努力しなかった役所の罪は重い。
【財界 2018年5月29日号 第451回】
画像:昭和58年(1983年)5月21日に開催された「第4ラーゲル会」の集合写真
【スタッフからのお知らせ】
嶌が2015年9月末に上梓したノンフィクション「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」(角川書店)にはこのコラムに登場された「第4ラーゲル会」の方々が現地のウズベク人と協力して建設したウズベキスタン・タシケント市のオペラハウス「ナボイ劇場」の建設秘話について記しました。本書には日本人の和を尊ぶ精神や、現地の方との交流などを描き、多くの方より感動の感想を寄せて頂き、今なお続いております。
http://nobuhiko-shima.hatenablog.com/entry/201805141
また、嶌が会長を務めるNPO日本ウズベキスタン協会が2014年8月に開催したシベリア抑留に関してお伺いするトークイベント「トークの会」にお越しいただいた法政大学非常勤講師の小林昭菜さんは今年の3月に「シベリア抑留――米ソ関係の中での変容」(岩波書店)を上梓されました。小林さんは2016年に第1回「村山常雄記念シベリア抑留研究奨励賞」受賞され、真摯にシベリア抑留を研究されていらっしゃる方です。ぜひ、こちらも合わせてお読みいただけると幸いです。
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合わせて、日本ウズベキスタン協会は今年20周年を迎えました。6月16日(土)14時より日本プレスセンターにて総会および新ウズベク大使とウズベク語講座の講師の方をお迎えし、今注目が高まっているウズベキスタンに関するお話を伺います。一般の方のご参加も可能ですので、多くの方のご参加をお待ちしております。
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