北方四島と日ロ平和条約~武田邦彦集中講座 今の話題を深く考える(7)

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◆かつて日本は北方領土の「国後島」「択捉島」を放棄していた

ウラジオストックで開かれていた「東方経済フォーラム」の全体会合の席上で、突如としてプーチン大統領が「年末までに何の前提条件もなく日ロ平和条約を締結したい」と発言しました。その場所にいた安倍首相はあまりのことにすぐには反応をしなかったと伝えられています。

このことに関して、日本では「それはひどい!北方四島を捨てさせる気か!」と憤激している人が多いようですが、この問題は奥が深く、メディアの煽り報道に戸惑わないほうが良いと思います。

歴史的にみれば、千島と樺太はアイヌが居住していたところで、その意味では日本人(和人)もロシア人(白人)も権利をもっていないところだということです。その後、江戸時代の初期に松前藩が1644年には国後、択捉などの島を幕府に報告し、1799年には伊能忠敬が得撫島までの地図を作っています。また1808年には間宮林蔵が樺太に渡り、北樺太のラッカに「大日本国国境」という標柱を建てています。当時、ロシア人も樺太千島に来ることがあったが「日本人を襲撃する」という感じで、全体としては日本が先に進出していました。

近代になって、1855年の日露和親条約、1875年の樺太千島交換条約、1905年ポーツマス条約(日露戦争後)、1951年サンフランシスコ平和条約(大東亜戦争後、ソ連は締結せず)で国境線は変更に変更を繰り返しています。

だから、日本人としては樺太はともかく「千島列島は北の端まで日本領土だ」と思いますし、著者もその意見です。しかし、大東亜戦争後のサンフランシスコ平和条約で日本は大失敗をしています。それは日本が「南樺太と千島列島」を放棄しているのですが、その時に「歯舞、色丹は千島列島に含まれない」としているのです。

つまり「北方四島」と言いますが、長い歴史を別にすると、日本自らが国後・択捉を放棄しているのです。それを受けて、1956年の日ソ共同宣言(鳩山一郎首相とブルガーニン首相)の日ソ共同宣言で「戦争状態を止め、外交関係を回復し、ソ連に抑留されている戦争犯罪人を釈放、ソ連の賠償請求権を放棄、ソ連が日本の国連加盟に賛成する、平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を譲渡する」と決めたのです。

残念ですが、戦後の日本は気分が落ち込んでいたこともあって、「北方四島の返還」を主張したことはなく、終始、「歯舞・色丹の返還」だったのです。それが日本国内のメディアの煽り報道などを受けて、日本人が「北方四島」にこだわっているというのが現状です。

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