女王様のご生還 VOL.145 中村うさぎ

先日、元タカナシクリニック院長と誕生日祝いの食事をしていた際、コロナウィルスの話になって、タカナシ院長が人の悪い笑みを浮かべながらこう言った。



「うさぎさんなんか、イタリア住んでたら死んでましたよー」

「なんでよ?」

「だってイタリアでは呼吸器の数が足りないからって、60歳以上のコロナ患者には呼吸器つけてくれないんですよー」

「マジか(笑)!」



まぁ、確かにそうだよな。

呼吸器の数が圧倒的に足りない場合、若くて労働力や生殖力があって社会的貢献が大きいとみなされる人間から優先的に救命措置が取られるのは理解できる。

その方が効率的だもん。

税金を払わないどころか国庫から支給される年金で生活してて、もはや労働力も生産力も生殖能力もない老人は、はっきり言って社会のお荷物だ。

それよりは将来性のある若者の命を優先するのは理に適っている。



普段は「万人の命は平等」なんてお題目を唱えてても、いざこういう危機的状況になると、自然と「命の価値は同じじゃないよね」というあられもない事実が露呈してしまうことに、私は痛快な気持ちがこみあげてくるのを抑えられなかった。

要するに各国政府は例の「トロッコ問題」に直面してるわけですよ。

「救うべき命と見捨ててもいい命はあるのか?」問題ね。

平等の理念から考えると、そんなものはないはずなんだが、あいにく人間は、そして社会は「平等」にはできていないのである。



この「社会にとって役に立たない命は価値が低い」という考えは、言うまでもなくナチスの「優生思想」に繋がっている。

今や現代人のほとんどが義憤を抱き批判するナチスの「優れた者だけが生き残るべし」思想は、今でもなんら変わらず、我々の意識の底に流れているのだ。

ナチスはユダヤ人のみならずゲイや知的障碍者も収容所にぶち込んで粛清の対象とした。

ゲイは子孫を残さない役立たずであり、知的障碍者もまた社会のお荷物だからだ。

だからって「殺していい」ことにはならないが、今回のようなパンデミックに襲われた場合に社会のお荷物である老人から先に見捨てられ、しかも他の人々もなんとなく「まぁ、非常時だから仕方ないよね」と黙認してしまう構造は、要するに「死んでいい」とみなされていることと同じであり、ナチスの思想とたいして変わらない。



と、ここで思い出すのが、以前、施設に入所している知的障碍者45人が職員によって殺傷された相模原の事件である。

なんかもうやたら正義漢ぶって「犯人の非人間的な言動に背筋が凍る」的な記事を書いてる記者だって、いざ日本にコロナが蔓延して呼吸器や延命装置の数が足りない事態に陥ったら、「余命いくばくもなく社会的貢献度も少ない老人が後回しにされるのもやむを得ず」と、ついつい考えてしまうのではないか。

だとしたら、あの相模原事件の犯人とたいして変わらない価値観の持ち主だ。

あの犯人はもしかしたら「非人間的」なのではなく、きわめて「人間そのもの」なのかもしれないのである。

みんなが偽善によって覆い隠している「差別的価値観」を彼が白日の下に晒したに過ぎない。

そして、あの犯人に「背筋が凍る」のは、彼が人の心を持たないモンスターだからではなく、我々が等しく根源的に抱える「あられもない人間の本性」であるからだ。

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