年を取っていろんなことができなくなることは、もっと悔しいかと思っていた。
だが真っ先に歩けなくなって、最初は悔しかったけど数年経って諦めたせいか、白内障で目があまり見えなくなっても、指が曲がって不自由になっても、もはや悔しいとも思わない。
いろんなことができなくなると同時に、いろんなことをやる気もなくなった、という感じだ。
欲望がなければ悔しさなど感じないものなのだなと、しみじみ思う今日この頃だ。
他人の幸福を羨んだり嫉んだり、周りの他人や環境に不満を募らせたりするのは、要するに「もっと幸福になりたい」という欲望があるからだ。
だが、今の私は「やるだけやったし、病気や老いは諦めるしかないし、もういいんじゃない?」という気分になっている。
「幸福か?」と訊かれれば、「幸福だ」と答えるだろう。
歩けなくても日々衰えていってても、幸福感はある。
「煩悩を捨てる」とは、こういうことなのだろうか?
いや、べつに捨てたつもりはないのだが、諦めた途端に煙みたいに消えてしまった。
そういう意味では、例の病気も、諦めの悪い私がいろんなことを諦めなくてはならなくなるための、いいきっかけだったのかもしれない。
あの病気がなかったら、私はまだまだ諦められずに悔しがっていただろう。
こんな不自由な身体になっても「幸福感」があるというのは、我ながら不可思議である。
欲望がなくなったからといって、現状に大満足というわけではあるまい。
なのに「幸福である」と言い切れるのは何故か。
それは自己欺瞞ではないのか?
いや、違うのだ。
そりゃ、毎日毎日ワクワクするほど幸せ、みたいな気持ちじゃないが、「これでよかったんだ」という静かな納得がある。
その静けさを、私は「幸福」と感じているのだ。