女王様のご生還 VOL.94 中村うさぎ

私は神の存在を信じていないのだが、ふと気づくと神に祈っていることがある。

「宝くじが当たりますように」的なお願いの祈りではなく、「私はこれでいいんでしょうか?」的な祈りを無意識にやっているのだ。

要するに、神への人生相談ね(笑)。

もちろん、答は返ってこない。

だって、存在しない相手に尋ねてるんだもん。



私はいったい誰に向かって祈ってるんだろう?

何故、存在しないと思っている相手に問いかけずにはいられないんだろう?

なんだかんだ言って、私は心のどこかで神を信じているのか?

ていうか、私にとっての「神」とはどんな存在なのか?



中学生の頃は、まだ神を信じていた。

その頃に、学校内のクリスチャンが集まっていろんな話をする会があった。

その会で高等部の上級生が、こんなことを言った。

「親戚の法事などに行かなくてはならない機会があるのですが、たいていが仏教の行事です。私はクリスチャンなので、信じている神が違う。クリスチャンが仏教の行事に参加して仏様にお祈りするのは変だと思いますが、親戚の手前、法事に参加しないわけにもいきません。どうすればいいのでしょう?」

なんてくだらない質問なんだ、と、中学生の私は呆れ、このような意見を述べた。

「私たちは確かに礼拝堂に集まってキリスト教の神に祈ってますけど、それってみんながみんな、同じ神に祈ってるんでしょうか? 私はそうは思いません。同じ神に祈っているつもりでも、それぞれ自分の心の中にいる神に祈ってるだけだと思う。みんながみんな、各々の神に祈っているのが現実であれば、仏教とキリスト教の違いなんて大した問題じゃない気がします。法事に参加して、自分の神に祈ればいいじゃありませんか。それがキリスト教式の礼拝でも仏教式の法事でも、どうせ私たちは自分の神にしか祈ってないんなら、同じことでしょ?」

すると、その場にいた音楽教師が、私に向かってため息交じりにこう答えた。

「まぁ……あなたって大人ねぇ!」



もちろん、皮肉である。

彼女は、自分たちクリスチャンが全員、同じ神に祈っていると信じているのだろう。

そのクリスチャンが法事で仏教の神に祈らねばならないことを、彼女自身も問題視していたのかもしれない。

だから、私の意見は彼女にとって「神への冒涜」のように聞こえたに違いない。



だが、60歳になった今でも、私は中学二年生だった自分の意見に賛成である。

我々は同じ現実を共有しているつもりだが、じつのところ、それは「まったく同じ現実」ではない。

それぞれが脳内で勝手に解釈した「私の現実」を生きているに過ぎないのだ。

ましてや、目にも見えず会話もできない超現実的な存在である「神」の場合、みんながみんな同じ神を共有しているはずがないじゃないか!

みんな、「私の神」に祈ってるだけなんだよ。



しかし、クリスチャンのほとんどは「我々の神はひとつ」と信じているのだろうから、当時から私はクリスチャンとして異端であったのだろう。

そして今でも、私は「無神論者」を名乗りながらも、他の無神論者の中では異端だと思う。

無神論者はよく「神が存在するという科学的根拠がない」と言うけど、私に言わせれば科学だって絶対的な存在ではない。

科学的根拠がないというだけで、神や霊が存在しない証拠と主張するのは、これまた「盲目的な科学信仰」のように私には見えるのだ。



そもそも、神の存在なんて、証明できようができまいが、私にとってはどうでもいい。

重要なのは、私が何を信じるか、だ。

私が「神」という概念に何を仮託し、何故祈ってしまうのか、という問題だ。

私は神の存在を信じていない。

が、それでも思わず祈ってしまうのはどういうことか?

私は何を求めているのだ?

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