女王様のご生還 VOL.71 中村うさぎ

マザー・テレサじゃあるまいし「博愛」なんてものを目指す気はさらさらないが、「博愛」について考える時に必ず相対するものとして浮かび上がる「自己愛」には非常に興味がある。

「博愛」の敵は「自己愛」である。



我々が「自己愛」に捉われている限り、他者を愛することなど不可能だからだ。

我々が「自己愛」を持たずに生きることは不可能である。

「自己愛」の中には「自尊心」も含まれるからだ。

だが、この「自尊心」というものが曲者で、しばしば「自尊心」を単なる「自惚れ」と取り違えている人がいる。

「自尊心」と「自惚れ」は断じて違うものであるはずだ。

どこが違うかというと、その基盤となっている「自己愛」の種類が違う。



あまり「正しい」とか「健全」という言葉を使いたくないのだが(何が正しくて何が健全なのだ、と考えてしまうので)、それでも「自己愛」や「自尊心」の在り方をあまりにも取り違えている人を見ると、「それは間違ってる! 不健全だ!」と感じてしまう。

なので、ここでは「私の考える正しさ・健全さ」を前提に話してみたいと思う。

あくまで私個人の「正しさ・健全さ」であり、普遍的なものとは考えてないので、そこは念押しさせていただく。



よく「自分を大切にしろ」という言葉を聞くが、これは「正しく自尊心を持つこと」だと私は考える。

決して「自分を甘やかすこと」ではない。

良くも悪くも自分を受け容れ、未熟で欠点だらけでとてもじゃないが理想の人間像とは程遠い自分自身を「仕方ない。これが自分だ。これで生きていくしかない」と諦めるところから始まる。

自尊心が無駄にプライドの高い傲岸不遜さと化している人は、たいていこの「生身の自分像」を受け容れられず、「私はこんな人間じゃない!」と否定するところから始まっている。



私がこんな人間であるはずがない!

他人は私を誤解して、不当な評価を与えている!

私はみんなが思っているより優れた人間なのに、誰もわかってない!



と、このように腹を立てている人を見かけるが、「それは他人の評価が間違ってるんじゃなくて、あなたの自己評価が間違っているのだよ」と言いたくなる。

まぁ、もちろん他人の評価が常に正確だとは思わないが、それでも他人はあなたよりもあなたを客観的に見ることができる存在なのだ。

その「客観的評価」は、ある程度、「自己像」の修正に有効なはずである。

ましてや家族や友人など、日頃のあなたの言動をよく知っている人々の評価は考慮に値する。

なのに、「みんなは本当の私がわかってない!」と思うのは、自分こそ「本当の私」がわかってない証拠ではないか。

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