女王様のご生還 VOL.107 中村うさぎ

上京していた両親が大阪に戻ってホッとしたのも束の間、翌々日くらいの夜に父から電話がかかってきた。

電話を取ると、何やら口論している声が聞こえる。

やがて父の「いいから、本人に聞いてみろ!」という怒鳴り声の後に、母が電話口に出た。



「もしもし? 誰?」

「典子だよ。どうしたの?」

「ああ、典子……!」

母は大きなため息をつき、怒ったような口調で続ける。

「あなた、今、どこにいるのよっ!?」

「どこって……家だけど?」

「誰の家?」

「え、自分の家……」

「自分の家? 何言ってるのよ! それで、いつ帰ってくるの?」

「え?」

「今夜は帰って来ないの!?」

「今夜は……こっちにいる」

「こっちってどこよ!?」

「東京」

「えええーっ! なんで東京なんかにいるのよ?」

「こっちで仕事してるから」

「仕事!? またそんな嘘ついて! こんな真夜中に仕事するひとがどこにいるのよ!」



真夜中って、まだ夜の8時ごろである。

これくらいの時間に残業してる人なんて世の中にはいくらでもいると思うが、そんなことをこの母に説明しても無意味なので、とりあえず調子を合わせることにした。



「わかった。ごめんね。今夜はそっちに帰れないんだ」

「友達と遊んでるのね!?」

「うん、まあ……違うんだけど、とにかくごめん」

「帰らないなら帰らないって、ちゃんと連絡してくれなきゃ困るじゃない!」

「うん、そうだね。ごめんね」

何も悪いことをしていないのに延々と謝り続けながら、私は考えている。



母は今、どの時間軸にいるのだろう?

私が帰宅しないと言って怒っているところを見ると、どうやら私が両親と同居していた頃だろう。

おそらく20代半ばくらいまでの時代だ。

彼女は40年くらいタイムリープして、そこで例によってぐるぐると小さな水たまりの周りを巡っているのだろう。

父が何を言っても、私がどう釈明しても、彼女の頭の中には「夜遅いのに典子が家に帰って来ない」という不安と怒りしかない。

そう、彼女が巡回している水たまりは、「今ここの感情」だ。

それは怒りだったり恐怖だったり不安だったり、その時によってさまざまだが、たいていはネガティヴな感情だ。

人間という生き物は、幸福感や喜びよりも、恐怖や不安や怒りに捉われやすいのだろう。

それはまぁ、わかる気がする。

どんなに幸福な瞬間にも、人は不安の芽を探さずにはいられない……我々はそういう生き物だからだ。

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