9月7日に左目の白内障の手術を受けた。
14日に右目を手術する。
左目の手術が終わった途端、がらりと世界が変わった。
すべてが色鮮やかでくっきりと見える!
凄い!世界ってこんな景色だったのね!
左目を瞑って右目だけで周囲を見渡すと、術前まで自分が見ていた景色が見える。
右目はまだ手術してないので白内障のままなのだ。
なんか見えにくいなとは思っていたが、私はこんな世界を見てたのか!と愕然とした。
すべてが黄ばんでセピア色のヴェールがかかったような色合いの世界。
左目に映る世界に比べると、まるで別世界だ。
なんだか色褪せた写真を見ているような気分で、こんなぼやけて黄ばんだ世界に住んでればそりゃ気も滅入るわ(笑)。
でも、自分では気づいてなかった。
白内障は知らない間に進行し、私の世界をセピアに塗り替えていたのだけれど、まったくそんな自覚はなかったのだ。
私の脳はあっさりとセピア世界に順応し、昔も今もこんな世界に住んでるつもりでいた。
手術をした後で見た色鮮やかな世界こそ、私がずっと慣れ親しんでいた世界だったはずなのに。
術後からずっと、片目ずつ交互に瞑って、右目のセピア世界と左目のカラフル世界の違いを楽しんでいる。
もちろんカラフル世界の方が正常なわけだし景色が活き活きとして楽しいのだが、右目で見るぼやけて霞んだセピア世界も捨てがたい。
老人の目に映るこの世界を記憶に焼きつけておきたい。
でも、右目を手術したらこのセピア世界の光景もすぐに忘れてしまうんだろうなぁ。
せっかく「右目は老人、左目は若者」という不思議体験をしているのだから、あと一週間は存分に楽しもう。
感覚的な記憶はすぐに消えてしまう。
入院していた頃は毎日、昼も夜もずっと激しい痛みに苦しんでいた。
だが今は、その痛みを思い出すことができない。
「痛かった」というエピソードは記憶に残っているが、どんな痛みだったかという感覚の記憶は消えてしまったのだ。
脳は不都合な記憶をさっさと消してしまう。
だからこの右目に映る「セピアの世界」も、エピソードとしては記憶されるだろうが、どんな色だったかどんな景色を見ていたのかは実感として思い出せなくなるだろう。
老化は劣化である。
よく「劣化なんて言葉を使って老化をネガティブに捉えるな!」という意見を耳にするが、目はかすみ耳は遠くなり歯は抜け身体が思うように動かなくなるこの現象は機能の劣化以外の何物でもない。
皺やたるみも筋肉の劣化が原因なのだから、「皺は美しいか否か」という美醜の問題は人それぞれの感性に任せるとして、「劣化」であることは間違いないのである。
そこで「劣化じゃないやい!進化だい!」などと無駄な意地を張っても仕方なかろう。
問題はこの劣化を各自がどう受け容れるかということだ。
老化を劣化として受け容れるということは、これが「死への準備」であることを受け容れることなのだ。
活き活きと咲き誇っていた花がしぼみ、枯れて変色し、ついにははらはらと散って大地に還る。
それと同じ過程を経験しているに過ぎない。
「花が枯れるのは劣化じゃないもん!進化だもん!」などと言う人はいないでしょ?
あれは間違いなく花が生命力を喪い、死へと向かう過程でしょ?