●テキサスの田舎風景から生まれた怪物。その恐怖の正体とは?
(しまった、やっぱり来るんじゃなかった…)。映画館の闇の中で、私は全身を包みこむ恐怖にシャツの胸元を握りしめつつ、激しい後悔の念にとらわれていた。その映画の題名は『テキサス・チェーンソー』。すなわち『悪魔のいけにえ』('74 "Texas Chainsaw Massacre") のリメイクである。
スプラッター流行の象徴的存在たるレザーフェイスというキャラが、チェーンソーを持って主人公たちを執拗に追いつめる映画。それぐらいは予備知識として持っていた。だが、ホラーは苦手だ。必要なければ観たくはない。しかし、2004年7月公開のアニメ大作映画『スチームボーイ』(大友克洋監督)の予習として必要なのだ。作曲家の名前はスティーブ・ジャブロンスキー。巨匠ハンス・ジマーのもと『パールハーバー』『ハンニバル』等の追加音楽を手がけてきた作家である。そして劇場映画用のスコアリング(劇伴)一本立ちがこの『テキサス チェーンソー』というわけ。
『スチームボーイ』の音楽収録、音響制作が米国LAで行われると聞いた私は、ハリウッドの音づくりを間近に観るチャンスはそうそうないと、お願いして取材に参加させていただくことになった。出立間際、ジャブロンスキー最新作がまだ公開中と判明したわけだ。こんな風に"呼ばれている感じ"がするときは、無理しても観にいくことに決めている。
結果として仕事的には大収穫。パンフレットにはジャブロンスキーのプロフィールが掲載されていたし、近くのタワーレコードではアマゾンでも買えなかったスコア盤をゲット(例によって「アルバム盤=ヒット曲集」と併売なので要注意だ)。そこには作曲者近影と担当作リストが掲載され、トップは堂々と"STEAM BOY"の文字が飾っていた。その音楽は金属的であってサスペンスフル、しかしどこかエモーショナルな曲で、好みであった。『スチームボーイ』の仕事については今後いろんな媒体で触れることになると思うが、現時点では大編成にして名演奏、量感と拡がりがあって身震いする名曲ぞろいと明言しておこう。
だからと言って『テキサス・チェーンソー』の怖さが低減したわけではないのだ……。負けっ放しも悔しいので、落ち着いて考えてみると、改めてなるほどと思うことも多かった。北米猟奇殺人の代表エド・ゲイン事件を下敷きにしているため、『サイコ』や『羊たちの沈黙』の兄弟映画なわけだが、アメリカの田舎風景が生み出した恐怖と魅力という点で、わが怪獣映画と呼応するものを感じた。
高度成長時代のビル建設や自然開発といったムーブメントは、輝ける未来の象徴だった。同時にどこか暴力的で人を抑圧するものも抱えていた。だから建造物を破壊する怪獣は、恐怖的存在であるにもかかわらず、キャラクターとして広く受け入れられた。都市風景と人の心の軋轢が、怪獣映画という神話の内包する破壊の構造と、強く響きあったということだ。
それと対を成すようなところが『テキサス~』にもあるのではないか。アメリカ南部、めったに車も通らないような郊外にある寂れた一角の風景の点描が、レザーフェイス以上に怖い。塗装がはげて朽ちかけた家屋、サビの浮いた金属、汚れてハエのたかった便器、柔らかくぬめった泥、したたる水……何ということないものなのに、恐怖の深淵へと誘う要素がそこにあふれかえっている。ロウソクや白熱電球のアンバー色ですら、そういう意味では恐怖をそそる。
外部、都会との交わりを拒絶するような雰囲気は、そこに住む人の心が作り出すものなのだ。朽ちていく風景がその心と化合する中から、自然物を伐採するチェーンソーを持った怪物が出現する。静謐さを打ち破りながら。だが、そこに最初からいる人びとにとっては、それは怪物ですらないという認識は、ショックと同時に大きな納得をもたらすものでもあった。
この作品は、オリジナルの70年代という設定を守っている。時代性もやはり重要な要素なのだ。日本で怪獣映画を理想的に成立させるには、もしかしたら同じように60年代、70年代を舞台にして、高度成長や公害のあった風景を持つ「時代劇」として作るしかないのかもしれない。そんなことをふと考えさせられた映画であった。
【2004年5月5日脱稿】初出:「宇宙船」(朝日ソノラマ)