女王様のご生還 VOL.202 中村うさぎ

太古の昔、非力だった人類は群れを作る事で危険から身を守り、協力して食料を確保する道を選んだ。

それは生物としての生存戦略であり、やがて群れは「社会」というより大きな共存コミュニティへと進化していった。

千差万別の個人を束ねる「社会」には秩序を守るための最低限のルールが必要であり、それは言うまでもなく個人の自由を縛る足枷となる。

ルールは時に行き過ぎた束縛となって特定の人々を抑圧して苦しめ、それに反発する勢力の抵抗運動を促し、人類は「よりよい社会」を目指して何度となくルールを書き換えては試行錯誤を重ねてきた。



誰もが平等に自由と権利を保証され快適に生きられる社会なんて実現可能かどうかは知らないが、少なくとも人類は努力を重ねてきたはずである。

だが、残念な事に我々は決して満足しない生き物だ。

苦労して手に入れた自由や権利はたちまち当たり前の日常と化し、より快適に生きるために「自分を不快にさせるもの」を徹底的に排除したくなる。

たとえその行為が他者の自由を侵害し抑圧する事になっても、だ。

かつては自分が抑圧されて社会から疎外されてきた人々ですら、自分が社会の主流に位置するや、不快な他者を排除しようと躍起になったりする。

つくづく皮肉なものである。



様々な価値観や欲望を持つ人々が共存するためには「個人の自由をどこまで許すかの線引き」が大きな課題となってくる。

誰かがあからさまな損害を蒙るような状況はともかく、個々の「快/不快」にまで社会が首を突っ込む必要があろうか?

誰かの「快」が他の誰かの「不快」になるのは当たり前の事だ。

特定の人間の「不快」のために他の人間の「快」を規制していったら、この世には娯楽も芸術もなくなってしまうのではないか。

万人が楽しめる娯楽、万人が気持ちいい芸術なんて、はたして存在し得るだろうか?



「表現の自由」「言論の自由」は、先人が作り上げた「よりよき社会実現のための概念」であるが、この「よりよき社会」というのが曲者だ。

誰かにとって不快なものがあれば、それはもう「よりよき社会」とは言えないのだろうか?

性表現や暴力表現の規制を訴える人々は、それらがこの世から消えてなくなれば「よりよき社会」が実現すると信じているのであろうが、それによって性的欲望や暴力衝動が消えてなくなるわけではない。

性的欲望や暴力衝動は人間の脳に深く埋め込まれた本能的なものであり、エロ本や暴力ゲームによって生まれるものではないのだ。

エロ本がない時代にだってレイプは存在したし、暴力ゲームが生まれる前から人類は暴力で他者を制圧し支配してきたではないか。

そんな事はみんな知っているはずなのに、性表現や暴力表現を殊更に規制したがる人々は、性犯罪や暴力犯罪の抑止を謳いながらもじつのところ「そういうものの存在が不快だから視界に入れたくない」という好き嫌いの問題ではないか、と私などは考えてしまう。

表現規制によって犯罪がなくなると本気で信じているのなら、殺人ミステリーも規制すべきだし、詐欺師や泥棒を痛快に描く娯楽作品もすべてNGという事になるはずだが、何故かそこは問題にしないのである。

犯罪を描いても問題ないが、性表現を描いた作品は犯罪を誘発するという理屈が私にはわからない。

詭弁にしか聞こえないのだ。

もっともらしい理由をつけて正当化しようとしているけど、要するに「そういうのは不快だから自分も見たくないし子供にも見せたくない」という個人的な好き嫌いの問題ではないのか?



もしも「快/不快」の問題であれば、「見たくない人は見なくて済む」という環境を作れば解決するはずだ。

現に血を見るのが苦手な人はスプラッタ映画など観に行かないだろうし、性描写が嫌いな人はAVを借りないだろう。

そうやって我々は、他者の嗜好を侵害せず、自分の不快なものは回避しながら共存している。

この「棲み分け(ゾーニング)」を徹底させれば、何もエロ表現や暴力表現を禁止する必要はないはずなのだ。

そのために「この作品には性的(あるいは暴力的)な描写が含まれています」などといった断りの言葉があらかじめ表示されるようになっている。

「嫌いな人は観ないでね」という気遣いだ。

それでもなお「エロや暴力表現は自分の視界だけでなく全世界から消えて欲しい。出版も販売も所持や閲覧も認めるな」と訴える人は「私の好みで作品の存在の可否を決める」と言っているも同然で、おまえは殿様かよと言いたくなるほど傲慢な要求に思える。

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