女王様のご生還 VOL.170 中村うさぎ

「うさぎ図書館」の方で書いた「もう終わりにしよう」について少し補足。

図書館では文章量がいつもの2倍になってしまったので、映画の解釈に重きを置いて私自身の感想は割愛してしまった。

ここでは雑感を少々書き加えておこうと思う。



あの映画のジェイクは「残酷な現実に耐えられず脳内の妄想世界に逃げた男」であり、観客は彼に哀愁や滑稽さを感じこそすれ大いに共感する人は少ないと思われる。

だが、よくよく考えれば、我々とジェイクの間にどれほどの違いがあるだろう?



我々が「現実」だと思っているものも、半分以上は自分に都合よく書き換えられた物語ではないか?

たとえば自分は恋人と相思相愛で幸せいっぱいと思っていても、相手の視点から見ると全く様相の違う物語なのかもしれない。

相手は表面的にあなたに合わせているだけでじつは内心で憤懣や嫌悪を募らせているのかもしれず、幸せどころか抜け出したくてたまらない不快な泥沼関係と捉えている可能性もあるのだ。



だとしたら、どちらが「本当の現実」なのか?

いや、どちらが本当かなんて問い自体が無意味である。

恋愛という同じひとつの物語を共有しているようで、お互いに別々の現実を生きている……こんなことは日常茶飯事だ。

あなたにとっての「現実」と隣にいる人の「現実」は必ずしも一致しない。

現実の捉え方なんて主観によって大きく左右されるのだから当然である。

ならば、我々はジェイクと大差ない虚構の現実を日常的に生きているとは言えまいか?



ジェイクが頭に思い描く「幸福」はひどく陳腐なものである。

映画や小説に描かれる薄っぺらいハッピーエンドのラブストーリー。

それが陳腐だからこそジェイクという人物がますます愚かで惨めに見えるわけだが、そんな我々とてメディアに植え付けられた陳腐な「幸福の定型」に囚われているのではないか?

我々の中に独自の「幸福」の基準を持つ者など数えるほどしかいないだろう。

たいていは他人が「幸福」と認定したものを疑いもせず取り入れ、自分はその幸福に手が届かないと嘆いたり、躍起になって幸福になろうと足掻いていたりするものだ。

だが、そもそも幸福なんて人それぞれで、「定型」など存在しないはずではないか。

なのに何故、多くの人が「幸福の定型」を盲信しているのかいうと、これはもう間違いなくメディアの影響である。

TVや雑誌が「これぞ幸福」と盛んに喧伝するからだ。

それに影響されて人々は思考停止となり、「自分の幸福とは何か」などと問いかけなくなる。

これじゃ、映画や小説の陳腐なハッピーエンドを夢見るジェイクとまったく変わらないじゃないか。



結局のところ、みんな個性や多様性なんかより万人に共有される定型が好きなのだ。

他者に承認されないと自分の幸福度に自信が持てない。

だから目指すべき「定型」を欲しがり、それをメディアが提供する。

そして、メディアが提供する幸福なんてものはたいていどこかの企業の商業戦略なので、人々はせっせと「定型」を買い漁っては消費する存在となるわけだ。

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