女王様のご生還 VOL.176 中村うさぎ

「アナモルフォーシス」という画法がある。

対象を歪ませて描き、特定の角度から観て初めて何が描かれているのかがわかる、という一種の「騙し絵」のような技法だ。



有名なものではホルバインの「大使たち」という絵がある(下記参照)。

https://bit.ly/2JxpVzo

二人の大使の肖像画だが、彼らの足元に奇妙な模様が描かれている。

一見、何だかよくわからない物体だが、角度を変えて観るとこうなる。

https://bit.ly/3mrWei3

そう、頭蓋骨だ。



ホルバインが何故、大使たちの足元に、それとはわからぬようにこっそりと頭蓋骨のアナモルフォーシスなどを描いたのかについては諸説あり、まぁ大方の解説では「今は若く可能性に満ちている大使たちもいずれは死んで骨となる」という「メメント・モリ」的な諸行無常のメッセージを忍ばせた、という風に言われている。

(じつは私は別の解釈をしているのだが、話が脱線するのでそれはまたの機会に。ただホルバインにこの絵を描かせたのがヘンリー8世である事は重要だと思う)



さて、このアナモルフォーシスは宗教画などにも使われ、ある修道院では、壁一面に描かれた何の変哲もない風景画を斜めから観ると聖人の画像が浮かび上がる、という仕掛けになっているそうだ。

アナモルフォーシスを用いてキリストや聖人の姿をこっそりと風景画に隠し、特定の視点からのみその姿が拝めるというトリックは、いかにも宗教的な、そして非常に示唆的な発想である。

確かに宗教とは一種のトリックではないか。

神の姿は凡人には見えず選ばれた者だけに顕現するという神秘性こそが宗教を神聖なものたらしめ、聖職者の権威を裏付ける。

それは信者たちにとっては奇跡であり、部外者にとってはトリックだ。

たとえば神のお告げを聞いて戦いに身を投じたジャンヌ・ダルクは、故国フランスでは英雄にして聖女だが、敵国のイギリスでは神の名を騙った詐欺師的な魔女とみなされて火刑に処せられた。

観る者の視点や立ち位置によって凡庸で退屈な風景画が神々しい聖人の姿に変わるように、神に選ばれた聖女も邪悪な悪魔の手先に変容する。

宗教とは、アナモルフォーシスだ。

いや、宗教だけではない、我々が住むこの世界もアナモルフォーシスである。

視点を変えれば被害者と加害者が逆転し、常識と非常識が入れ替わり、正常と狂気も容易に反転し得る。



カフカの「城」は、まさにそのような世界を描いている。

主人公であるKの視点から読み進めると、村の人々の言動は意味不明で「城」の存在やその構造は謎に包まれているが、村人からすればそれは口にするまでもない常識でありKの言動の方がよっぽど狂っているのだ。

被害者と加害者、常識と非常識、正常と狂気……その相反する極点は決して絶対的なものではなく、それぞれの主観によって常に揺れ動いている。

さらに「城には選ばれた者しか入れない」とか「城の役人クラムの姿を見ようとするのは不敬であり、そもそも選ばれた者以外はその姿を見ることなど不可能である」などといった暗黙の掟が、城とその関係者を神秘のヴェールで覆い隠し、宗教と同様、そこにいかにも神聖ぶった煙幕を張る。

が、それも所詮はトリックなのだ。

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