アニメの珍味 第12回「アニメの描いた未来(その6)」

※2002年5月10日発売号の原稿です。

《前説》

『WXIII 機動警察パトレイバー』は筆者の地味過ぎるのではないかという心配(?)をよそに続映決定し着実に集客をしているそうで、フランスや香港など海外でも絶賛だったとのこと。本当に何よりです。こういった渋くてしみるアニメ映画をもっと観たいですね。娯楽の基本はハレですが、それだけでは物足りなくなることもある。ステーキを食べればお茶漬けも欲しくなると、そんな風にアニメ食生活も豊かにしていきたいものですね。

●バブル後の映画『パトレイバー2と携帯電話

 引き続き今回もパトレイバーを題材に、劇場映画『機動警察パトレイバー2 The Movie』に引っかけた未来話をいたしましょう。

 初公開は、1993年の夏。かなり最近の作品だと思っていましたが、もうかれこれ10年近く前の作になるんですね。パトレイバーが初めてビデオシリーズで出発してからおよそ5年目の作品にして、特車2課の物語としては一応の完結編という体裁をとっています。

 世の中と言えば、バブルが崩壊してから間もなくの時期。Jリーグの歌が流行し、皇太子殿下のロイヤル・ウエディングが世間を騒がせていました。『クレヨンしんちゃん』がヒットし、『美少女戦士セーラームーン』もRに入ってシリーズ2年目と、こう並べてみると10年ひと昔という感じが強く漂っていますね。

●当時の携帯電話事情

 もうひとつ、通信の世界では大事な節目もありました。現在の主流、PDC方式のデジタル携帯電話サービスがスタートしたのがこの年です。そのため、この年の春は、仕事仕事、納期納期で強烈に忙しかった記憶があります(笑)。振り返ると、同時に経験値を上げられたありがたい年でもあります。

『パトレイバー2』にも携帯電話が画面に登場していますが、この年とすれば、アニメに取り入れられたこと自体がかなり先進的ですね。制作中はアナログ方式の携帯電話しか無かったはずです。

 映画中、車載式のものが出て来ますが、実は携帯電話自体がこの自動車電話を超小型化したものです。サービススタート当初は携帯電話を本当に必要とする人しか持っていませんでしたから、松井刑事が高級外車を襲撃して電話を拝借するシーンで、持ち主がいかにも「その方面」の方なのは劇場で笑ってしまいました。今はもうギャグとして成立しないかも。

 アナログ方式で携帯として小型化されたばかりの時点で、やがて大人気となって周波数が逼迫することを見越してデジタル化したことが、日本の携帯電話普及を推進しました。しかもモバイルデータ通信という分野まで開拓したことは、かなりの先見性があるわけです。携帯メールにしてもその先にあるわけですし。

 ですが、携帯電話をそういった時期にアニメに登場させることは、それ以上に時代に対する先見性があるわけで、負けてはいないと思います。

●通信と情報インターフェイスへの正確な視線

 さて、テロリズムを主題にした軍事描写が話題となったこの作品ではありますが、個人的には通信機器、情報機器の扱いが非常に正確であり、かつ本質に迫っているという印象が強くあります。

 アニメの中における機械の小道具としての取り扱い描写が正確だという意味ではありません。見識のレベルが高い、ということです。

 特に面白いと思ったのは、「インターフェイス」の問題を扱っているのだなと思った部分です。映画中ではそういう言葉を使っていませんが。

 インターフェイスとは「界面」と訳される用語ですが、これでは少し意味不明。でもこの概念はコンピュータや通信の世界では非常に重要なものです。

 インターフェイスの「インター」は、インターハイ、インターネット、インターナショナルなどと同じものです。本来は「間(にある)」と、そういう意味です。そして「フェイス」は文字通り「顔」のことです。つまり互いに顔と顔をつきあわせている、その接点のところにあるものが「インターフェイス」です。

 例えばコンピュータとプリンタ、別々の装置をつなぐ場合、今だとUSBのケーブルでつなぎますが、この場合はケーブル含めたUSBという取り決め(規格)のものがインターフェイスとなるわけです。

 この映画の中には、さまざまな形で情報に関するインターフェイスの「かたち」が描かれています。

●人はインターフェイスがつくる

 人間の認識とは、情報をあるインターフェイスを介して出し入れすることで醸成されていきます。つまりインターフェイスが人をつくると言っても良いでしょう。人のすべてではないにせよ……。

 すべてを直接の五感に頼って、自然界にあるもの──たとえば音波や光だけをインターフェイスとしていた時代は、実はそれほど前のことではありません。ですが、今は逆に人間が知覚する情報の大半が何らかの機械化インターフェイスを介しており、その機械中継を容易にするためにデジタル技術が急進的に拡大して人を包囲し始めているわけです。

 個人的な感覚だと、パンドラの箱があき始めたのがこの1993年ぐらい。全開になったピークがウィンドウズPCとインターネットがブームになった1995年で、そのインターフェイスの激変的な雰囲気が良く映像として定着している感じがするのです。

 この原稿を書くにあたってこの映画のDVDを高速でサーチ&スキャンしてみたのですが、すぐ気がつくのは人間が電話に代表される「機械を使って話をしているシーン」が非常に多いということです。半分くらいは携帯電話かコードレス電話という時代的にも新しいものを使っています。

 電話だけではありません。例えばオープニングのタイトルバックではシミュレーション装置を通じて会話する野明と遊馬、主人公2人はお互いインカムを通じて会話をしています。「幻のスクランブル」では自衛隊の航空管制官も戦闘機に乗っている隊員もインカムを通じて通信を行っています。ふと気がつくと、新人の教官となった太田と、訪ねてきた進士はマイクとスピーカーを通じて指示を下していますし、とにかく機械を仲介としてを会話をしたりする場面が非常に多い。

 だからまずはインターフェイスの映画だな、と思ったのでしょう。

●機械インターフェイスの時代

 ここまで機械化される前は、人はもっぱら肉声・肉筆でコミュニケーションをとっていました。ところが現代社会では機械抜きにしたコミュニケーションの方が減ってさえいるわけです。機械をインターフェイスとして、機械を通じてのみ情報を出し入れしている──機械的インターフェイスに過度に依存していると言えるでしょう。私にしても、もうそれ抜きでは仕事はできません。

 しかし──と、ここで疑問を抱くかどうかです。

 世の中には、2つのタイプの人間がいるでしょう。いつも疑問を持ちながら生きていくタイプと、そうでないタイプです。どちらが幸せなのか、長生きできるのかは判りませんが、常に肯定と否定を合わせ持つことが真実への早道だとすれば疑問は抱いていた方が良さそうです。

 この疑問は作品テーマと非常に密接に結びついて来ます。それは、犯人がクーデターに偽装したテロを行っていると物語中でも説明されている通りだからです。テロとは破壊行動と直結して扱われることが多いですが、本来の綴りは「Terror」ですから「恐怖」のことで、活動によって震え上がれば成功と、そういう概念です。

 映画のクライマックスでは、戦闘ヘリコプターの出動によって実弾破壊活動が行われますが、印象的なこの場面ではアニメらしからぬ戦闘シーンが行われているのに注目したいところです。

 パトレイバーをを擁している警察の特殊車両部隊を除けば、ターゲットは2つに絞られています。ひとつは、東京の橋を破壊して交通の要所を分断していること。もうひとつは、ビルの屋上を破壊してることです。特に後者は、通信や放送に使われているアンテナを潰したと思われ、それはテロ犯人が同時に地下の埋設ケーブル(主として電話線)に爆弾を仕掛け、有線回線の破壊と同期させているからです。都民は情報を媒介するインフラストラクチャを断たれ、あらゆるインターフェイスがノイズのみとなった状況下で恐怖を覚えるという展開となります。

 犯人の動機については、映画の冒頭数分によく描かれています。柘植がある思いを抱くまで、彼のインターフェイスはすべて機械でした。発砲禁止の上層部の命令ですら……。テーマの可否の判断は観客それぞれのものですし、本稿の目的と違うのでここでは避けます。が、デジタル化で進歩したインターフェイスの恩恵を受ける以上、それが同時にどういうことをもたらすのか、考える思考モデルとして再見に値する映画だな、と思います。

 携帯電話やEメールを今さら捨てるわけにもいかない以上、そういった疑問は持ち続けながら付き合っていく。ではどうやって? という視点を10年、20年後に向けつつ、アニメもひとつのインターフェイスとして大事にしていきたいものですね。

【2002年4月18日脱稿】初出:「月刊アニメージュ」(徳間書店)