女王様のご生還 VOL.97 中村うさぎ

新年あけましておめでとうございます。

などという常套句を、リアルでも自分のエッセイでも言いたくない私は、相変わらずのへそ曲がりだ。

年齢や経験とともに変わる部分はあるけど、一貫して変わらない部分もある。

そして、その「変わらない部分」こそが私の本質なのだろうと思う。



私は形骸化した儀礼や上っ面だけの社交辞令が大嫌いだ。

他人がそれを常識として共有しているのは構わないが、それを私にまで強要しないで欲しいといつも思っている。

社交辞令やお世辞は、「言葉」の持つ力をどんどん希釈していく。

本気の好意も善意も、すべてが魂のない上っ面の言葉に吸収されてしまうのだ。

我々は何のために「言葉」を発明したのか。

自分の感じていること、思っていることを、相手に知って欲しいからではないのか。

いつから我々は、心にもない言葉で相手に媚びるようになり、しかもそれを当然の社交術だなどと考えるようになったのか。

そして、その欺瞞に満ちた社交術を「礼儀」などと称して他者にも強要するようになったのか。

ああ、すべてが気持ち悪くて尻がムズムズする!



私がゲイコミュニティを好む理由は、こうした社交術が二重三重にひねくれて「毒舌」という形に昇華されているからだ。

相手(特に女性)に向かって、たとえ本気でなくても「お綺麗ですね」などと言うのが社会一般の常識的社交術だとすれば、彼らはあえて「あんたブスねぇ」などと言い放つ。

大方の女性は普段、他人から「ブス」なんて言われたことのないので、そこで憤慨したり傷ついたりする人も少なからずいる。

だが、その「ブス」は決して相手を蔑む言葉ではなく、むしろ愛情表現だったりするのである。

その証拠に彼らは、仲良くなりたいと思わない相手には決して「ブス」と言わない。



友人のドラァグクィーンのエスムラルダは、「ブス女装」「ホラー女装」を売りにしているのだが、かつて彼女が書いたエッセイに、その毒舌の効果がうまく表現されていた。

エスムラルダは昔から自分の容貌にコンプレックスを抱いていたのだが、新宿二丁目で互いに「おはよ、ブス」などと言い交わしているうちに、「ブス」という言葉の持つ攻撃性や毒がどんどん希釈されていき、ついには開き直って「ブス女装」を自称するほど己のコンプレックスから解放された、というエピソードだ。

そう、「言葉」は頻繁に使われることで摩耗し、その意味は希釈される。

だとしたら、「綺麗だ」とか「好き」とかいうもっとも大事な相手に捧げるべき言葉を摩耗させるのではなく、むしろ「ブス」とか「ババア」とか「オカマ」という差別や侮蔑の言葉をどんどん摩耗させていって無力化した方がずっといいじゃないか。

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