女王様のご生還 VOL.102 中村うさぎ

私はずっと「今日と同じ明日が来る毎日なんて真っ平ごめんだ」と思って生きてきた。

毎日毎日が同じことの繰り返しなんて、退屈でバカバカしくて生きてる意味がない。

たとえそれが「平穏無事な安定した幸福」なのだとしても、毎日幸せのぬるま湯の中でボケボケ生きてるより、変化と刺激と危険に満ちた地獄の方がマシだ、と。



私のこの考えは今でも変わらないが、私の肉体がそれを拒否してしまった。

ひとりで自由に出かけてあちこち飛び回ることのできない身体になって、私は仕方なく何の変化もない日々を繰り返している。

起きてコーヒーを飲み、目が覚めるまでしばらくボーッとしている。

Netflixでドキュメンタリーやアニメやドラマを観たりして、ようやく身体が動くようになったらのそのそとベッドを出て仕事を始める。

インタビューや対談の予定が入っていれば夫にその場所まで連れて行ってもらい、外出の予定がなければ家で原稿を書く。

ひと仕事終わったら疲れてベッドに戻り、Netflixを観ながら食事をする。

3日に一度くらいの頻度でネットゲームにログインするが、消耗するので長時間はプレイしない。



この繰り返しだ。

他には何もない。

毎日毎日、同じ日常のループ。

私は自分が生きているのか死んでいるのか、よくわからない。



こんな私に比べると、認知症の母の方がよほど変化のある毎日を送っているような気がする。

傍目には同じことを繰り返してるだけの毎日に見えるが、何しろ彼女は昨日のことも覚えてないから、毎日が新しい体験だ。

しかも脳内で時間旅行をしてるから、今の「私」は85歳でも、15分後の「私」は25歳だったりする。

これは、なかなか常人には真似のできない変化に満ちた毎日である。



歩けなくなって家にいるだけの毎日なら、彼女に倣って脳内旅行してみたらどうか、と考えてみた。

脳内では空間移動だけでなく時間移動もできるし、ある意味、自由自在ではないか。

我々の生活において時間は「過去→現在→未来」へと一方通行で流れているが、それはあくまで便宜上のことで、脳内では時系列どおりにすべての記憶が並んでいるわけではなかろう。

我々が記憶を呼び起こす際に、それを時系列順に並び変えているだけで、本来は雑多の記憶の断片があちこちに点在しているのだと思う。

寝ている時の夢に、それは顕著に表れるではないか。

理性による制御や管理が外れて野放しになった我々の脳は、夢の中で自由自在に過去と現在を行き来する。

幼少期に住んでいた家に今の自分が住んでいたかと思えば、その家を一歩出ると高校時代の友人と道を歩いていたりする。

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