女王様のご生還 VOL.47 中村うさぎ

前回に引き続き、ボケた母の話である。

昨日は母に殴られるかと思った。

私たちはホテルの部屋(両親が宿泊している京王プラザホテル)で話していたのだが、例によって「私はどこもおかしくない! あんたたちが私をハメようとして作り話をしてるんだ!」という陰謀論を展開しているうちに怒りのテンションがマックスに達し、ベットに寝そべっていた私の目の前に仁王立ちとなって(目をカッと見開いたその憤怒の表情は本当に仁王みたいだった)、ぶるぶると震える両の拳を今にも私の顔面に繰り出そうとしているかの迫力であった。

私はそれを見ながら「ああ、こりゃ、久々に親に殴られるかな。思えば何十年ぶりだろう」などと妙な感慨に耽っていた。彼女が私をビンタしてたのは小学校低学年くらいまでであるが、経験上、母親にぶたれるのは大して怖くない。父親と違って彼女はかなり手加減をするため、あまり痛くないのだ。しかし、今の彼女は手加減などしそうにない。生涯初めての猛烈な本気パンチ(しかもグーで)が浴びせられそうだ。うーむ……どれくらい痛いのかなぁ。見当もつかん。



が、その時、父親が彼女を押さえ、「ほら、もういいから。落ち着きなさい」とベッドに座らせたので、結果的には本気パンチは来なかった。もしくらっていたら私も激昂したに違いないので、まずはめでたしめでたし、だ。

私は身を乗り出し、彼女の顔を覗き込みながら、極力やさしい口調で言った。

「お母さん、どうしてそんなに怒るの? お母さんは身に覚えのない作り話をされてると言うけど、それはお母さんが記憶を失くしてるからなんだよ」

「私、記憶なんか失くしてない! 頭はしっかりしてるわよ!」

「ううん、失くしてるんだよ。その証拠に、さっきもここがどこだかわからなかったでしょ?」

「自分がどこにいるかくらいわかってるわよ! ここは……ここは……どこよ?」

「東京だよ。新宿のホテルの部屋だよ」

「なんで東京なんかにいるのよ! 私をどこに連れてく気?」

「いや、どこにも連れてかないし。お母さんは私に会いに東京に来たんだよ。だから、こうして話をしてるの」

「話なんかしたくないわよ! 家に帰りたい! 今から帰る!」

「帰るのは明日だよ。今日はここでもう一泊ね」

「どうしてホテルなんかに泊まってるのよっ? 家で寝ればいいじゃない!」

「家は遠いから今から帰れないんだよ。大阪だもん」

「そうよ、家は大阪よ。ここはどこ?」

「東京だよ」

「えっ、東京? なんで東京なんかにいるの? いつ帰れるの?」

「明日の新幹線で帰るんだよ」

「いやよ。今から家に帰るわ!」

「無理だよ。もう新幹線はないから」

「なんで新幹線なの? ここはどこ?」

だから東京だって言ってんだろぉ―――っ!!!



と、心の中でツッコみつつも、辛抱強く同じ説明を何度も繰り返す私であった。

「ね、お母さん。お母さんは今、病気に罹ってるの。記憶が時々飛んじゃう病気だよ。だから、私たちの話が作り話に聞こえるかもしれないけど、私もお父さんも嘘なんかついてない。お母さんを騙そうともしてない。ただ、お母さんが病気のせいで記憶を失くしてるから、身に覚えがないだけなの」

「私……なんでそんな病気になっちゃったの?」

「それは……」

「おまえが年取って認知症になったからだよ」(←父)

おとん、おまえは黙ってろ――っ! 認知症なんて言ったら、また怒って荒れ狂うじゃないか! ほんとに人の気持ちを忖度しない男だな!

だが幸い、耳の遠い母には父親の言葉が聞こえなかったようだ。「認知症」という地雷ワードを華麗にスルーし、その代わり、めちゃくちゃ予想外の結論に至った。

いきなり私の顔をキッと睨みつけると、

「あんたのせいね!」

「は?」

「あんたのせいで、私はこんな病気になったんだ! あんたが……あんたが毎日毎日、私の前でそうやってもくもくタバコを吸うから、その煙で私が病気になったんでしょ!」

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