女王様のご生還 VOL.1 中村うさぎ

両親が上京してきたので、3日間ほど、彼らと一緒に過ごした。

母と会うのは3ヶ月ぶりくらいであったが、予期していたこととはいえ、認知症がかなり進行しているのを目の当たりにして軽くショックを受けた。



2ヶ月ほど前、深夜の0時過ぎに、母から電話があった。

そんな時間に電話が掛かってきたことなどかつてなかったので何事かと思ったら、「お父さんが私の財布を盗んでどこかに行った」と言う。

父親はその日、所用で上京していたので、「どこかに行ったのではなく、東京に来てるはずだ」と伝えると、「でも、私の財布を盗んだの」と訴える。

父親が母親の財布など盗むわけがないし、自分でどこかに置き忘れたんじゃないかと答えると、「そんなことない。ここ何ヶ月か、私の財布からお金がなくなるの。お父さんが盗んでるのよ。ずっと黙ってたけど、今度は財布ごと盗まれた」と言いつのる。

結局、何を言っても納得しないので、「じゃあ、明日お父さんが帰ってきたら、財布のことを本人に訊いてごらん」と諭して電話を切った。



そして一昨日から3日間、上京した両親と一緒に過ごし、母親の現状をざっと教えてもらった。

どうやら母親は、自分で財布からお金を抜いて、家のどこかに隠す習性があるらしい。

お金だけではない、財布やバッグごとどこかに隠し、そのことをきれいに忘れて「お金が無くなった」「財布が消えた」「バッグがない」と騒ぐのだ。

そこで父親が一緒に探すのだが、見つかることもあれば見つからないこともあるという。



ある時は、母親が例によって「バッグがなくなった」と言うので、「バッグの中には携帯が入ってるだろう。鳴らしてみればわかるんじゃないか」と提案し、家の電話で母の携帯を鳴らしてみた。

すると、遠く離れた母親の部屋から微かな携帯の着信音が聞こえてくる。

部屋に入ってみると、どうやらその音は、押し入れの中から聞こえているようだ。

そこで押し入れを開けてみると、そこには昔からしまってある古いステレオセットがあり、なんとそのステレオセットの扉付き小物入れの中にバッグが押し込んであったそうだ。

むろん、母親が自分でそこに入れたに違いないのだが、本人は記憶にないので頑として認めない。

挙句の果てには「あなたが隠したんでしょ!」と父親を責める始末だ。

時にはゴミ箱の底から何万円も出てくることがあり、うっかりゴミも捨てられない。



その話を聞いて、まるで犬のようだ、と思った。

自分で骨を地面に埋めて忘れてしまう。

犬だけでなくリスなども、木の実を樹木のうろなどに溜め込んで忘れてしまうという話を聞いたことがある。

母親が金や財布を家のあちこちに隠すのは、ある種の生物的本能なのだろうか。

動物の場合は食糧だが、人間の場合は「金」というわけだ。



まぁ、食べ物を隠されるよりは(腐るし)、金を隠された方がマシな気もする。

認知症の老人は子どもに返るなどと言うが、母親の場合は子どもどころか先祖返りだ。



ただ注目すべきは、母親の「他罰傾向」である。

母親は私に「今まで50年以上も、私は財布を失くしたことなど一度もない。なのにここ最近になっていきなり財布をいくつも(この半年の間に彼女は財布を3つ失くしている)失くすわけがない。絶対にお父さんが盗んでるのよ」と言い張るのだが、私が「じゃあ、その論で行くなら、この50年以上、お父さんがお母さんの財布を盗んだことも一度もないよね。何故ここ半年で、急にお父さんが財布を盗むようになったの?」と尋ねると、不機嫌になって「知らないわよ! お父さんが私に嫌がらせしてるのよ!」と決めつけるか、「じつはお父さん、悪い友達が出来て、その人にお金を巻き上げられてるみたいなの」などとまことしやかに作り話をしたりするのである。



これは非常に興味深い現象だ。

この作話は「コルサコフ症候群」を思わせる。

辻褄の合わない現実に遭遇した時、人間がいかに辻褄を合わせようと突飛な作り話を思いつくか、といういい例だ。

考えてみればスピリチュアルや宗教も、このような「突飛な仮説で無理やり因果関係を作って辻褄を合わせる」という人間の習性から生まれたものではないか。

母は何故、自分を疑わないのか(疑いたくないのだろう)、何故すべて父のせいにするのか(自己責任逃れは容易に他罰に流れる)、そして父の奇行を説明するために作話までするのか(辻褄合わせの習性)……このようなことを考えれば考えるほど、母の言動が人間というものの本質を示しているようで、非常に興味をそそられる。

母の「暗黒」は認知症の「暗黒」ではなく、人間そのものの「暗黒」ではないのか。

人間はその「暗黒」を理性で抑えつけているが、認知症によってそのような抑圧が

失われると、途端にその「暗黒」が剥き出しになるのかもしれない。



人間は基本的に自分の知覚しか信じない。

それは私とて同じである。

神を見たことがないから神を信じない。

霊を視たことがないから、霊を信じない。

見た人がいるのも知っているが、それが彼ら彼女らの幻覚ではないのか、虚言ではないのか、などと、自分よりも相手の信憑性を疑う。

母もまた、記憶にないことは一切認めない。

すると誰か別の人間が財布を隠したことになり、身近にいる父が怪しいという理屈になる。

父に対する長年の信頼はあっという間に失われ、まるで見知らぬ人のように思えることもあるだろう。



そういえば母は、時々、父が「見知らぬ人」に見えるらしい。

近所の奥さんに「知らない男が家にいる」と訴えるのだそうだ。

それが単なる「記憶障害」なのか、それとも「信頼や愛着がなくなった」ことのメタファとして「知らない人に見えている」のか(だとしたら面白い!)、そこらへんはぜひとも知りたいところだ。

このような人物誤認妄想は「カプグラ症候群」「フレゴリ症候群」などといった精神疾患としても知られているが、これらの妄想の対象は夫や家族など、日ごろから愛着の強い相手が多いという。

つまり、愛着のあったはずの相手に愛着が感じられなくなった時、その「愛情欠如」の辻褄を合わせるために、このような「偽者妄想」「替え玉妄想」が出現するのだ。

母親は「カプグラ症候群」や「フレゴリ症候群」ではなく単なる「アルツハイマー症候群」だが、これらの精神疾患とどこかで繋がっているような気がするのだ。

だって人間の脳は基本的に同じように働くはずだもん。



辻褄合わせと作話、他罰と偽者妄想……そこに人間のプリミティヴな「闇」がある。

今、客観的な判断力を失いつつある母の脳は、その「原始の闇」に翻弄されているのだ。

私もいつか、その「闇」に侵される日が来るのだろうか。

その時、私はどのように自己を認識するのだろうか?

入院中に頭が混乱して記憶が無くなっていた頃、私は素直に自分の記憶喪失を認め、殊更に辻褄合わせの作話をしたり他者を疑ったりはしなかった。

「アルツハイマー症候群ではなかったからだ」と言われてしまえばそれまでだが、頭がおかしかったことには変わりないので、その点に関しては一抹の希望を抱いている。

もしかすると私は、自分がボケていくことを認め、母のような作話や他罰や被害妄想には陥らずにすむかもしれない。

ボケていきながらも、私がどれだけ客観性を維持できるか、そして自己をどのように保っていられるのか、そこに非常に興味がある。

ボケ始めたらさっそく「ボケ日記」を書くので、私がどのように壊れていくのか、その経過をお楽しみに!



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