女王様のご生還 VOL.159 中村うさぎ

「うさぎ図書館」で取り上げた映画「愚行録」の中で、私がもっとも関心を抱いたのは主人公とその妹のキャラクターであった。

それについて書こうとしたら文字数が大幅にオーバーしそうだったので、こちらでじっくり考察することにする。



まず、我が子をネグレクトして死に至らしめた妹について。

「何故、彼女はネグレクトしたのか? それは幼少期に彼女もまた親からネグレクトされていたからではないか?」と考えた弁護士は、彼女の生い立ちを調べようとする。

まぁ、至極もっともな発想である。

親に虐待されて育った人間は自分の子にも虐待を加える……この「虐待の連鎖」は有名な話だ。

だが、彼女が受けていた虐待は「父親からの性的虐待」だったと判明する(あくまで彼女と兄の言い分なのでどこまで本当かわからないが、とりあえず「性的虐待は本当にあった」という前提で話を進める)。



小学三年生の時に父親からレイプされた彼女は、自分の人生を仕切り直したくて、憧れの名門大学に入学する。

そこから新しい人生が始まるはずだった、

しかし結局は、クラスメイト(後の「一家惨殺事件」の被害者)に利用されて次々に大学の金持ちぼんぼんたちと関係を結ぶ羽目になり、最終的には誰からも相手にされなくなってしまう。

ここで疑問に思うのは、「何故、彼女は拒まなかったのか?」だ。

中にはセックスしたくない相手もいただろうに、どうして「NO」と言わずに身を任せたのか。



彼女を知る元同級生は「彼女も節操がないというか、野心が強すぎたのよね」と語る。

つまり、金持ちの男を捕まえて結婚するのが目的で彼らと片っ端から性的関係を結んだのだ、と。

が、それはたぶん間違った推測だ。

私が思うに、彼女は「空っぽの器」だったからこそ、乞われるままにセックスをしたのだ。

誰かに愛されたり求められたりしないと、自分には何の価値もないような気がする……これは私も含め多くの女性たちに共通する感覚だが、彼女の場合は人並み以上にその傾向が強かったのだろう。

何故なら彼女は小学生の頃から父親の「欲望の器」だったからだ。



誰かが自分に欲望を注ぎ込んで初めて、彼女は自分の輪郭を保てる。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、彼女の場合は「他者思う、ゆえに我あり」なのだった。

他者が自分に向ける視線によって初めて自分の存在を確認できる。

そして、「私」を存在させてくれる他者の欲望や期待に応えることで、輪郭もなく存在の実感すらあやふやな「私」がはっきりと形作られる。

彼女が男たちに次々と身を任せたのは、男たちの欲望に応えるためだけでなく、自分を男たちに斡旋する学友(一家惨殺事件の被害者となる女)の期待に応えるためでもあったろう。

彼女は人の役に立ちたかったのだ。

他者の期待に応え、役に立つことで、自分の存在価値を実感できる。

そんな彼女を「自我のない空っぽの器」と嘲るのは簡単だが、我々にだって多かれ少なかれ「他者の期待に応えたい」という欲求があり、そこに己の存在意義を求めようとする傾向があることは否定できまい。

つまり彼女は、我々のもっとも脆弱で不安な部分を体現する人物なのである。



彼女は「私を一番愛してくれる人の子供を産めば幸せになれると思った」と語る。

彼女に欲望を注ぎ込む人々はいずれ彼女を捨てて去っていき、彼女はまたもや寄る辺ない「空っぽの器」に戻ってしまうのが常だったが、子供は違うと思ったのだ。

赤ん坊はこの世でもっとも彼女を必要としてくれて、その欲求に応え世話をすることで自分は満たされる、と考えたのだろう。

実際、子育てで自分の存在意義を満たす女性は大勢いる。

だが、彼女の産んだ子供は期待外れだった。

「あの子、笑わないの。抱きしめたくても身体が動かないの」

子供に何らかの障害があったのかどうかはわからないが、とにかくその子は母親に笑顔を向けず、まるで母親を必要としていないかのように見えた。

そして彼女は、そんな我が子を抱きしめられない。

他者から必要とされることで自分の存在を確認してきた彼女は、自分を求めない相手に対してどう振る舞っていいのかわからない。

相手が求めなくても自分の方から抱きしめるという選択肢を持てないのである。

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