「マーケット人生はまさに波乱万丈」~江守 哲の「マーケット人生物語」(第2回)



新しいものを作るために必要なのは“あと一ひねり”

みなさん、こんにちは。

前回の第1回目の掲載の「マーケット人生物語」が予想以上に好評でした。

ありがとうございます。これはこのまま継続していきたいと思います。

このコラムでは、これまでの仕事を通じて感じたことなどを記していきたいと思います。

それが読者の方々のヒントになればと思います。

ひとりのサラリーマンのマーケット人生。いま振り返っても、あまりにいろんなことがありました。

社会人になってまもないひと、すでに中堅になっている方、部下も多く、上司との板挟みになっている中間管理職。

サラリーマンにはいろんな立場の方がいます。

私はどちらかといえば、サラリーマン時代も自由にやってきた方だと思います。

それなりにリスクがありますが、そのリスクを取らないと、仕事をしている意味はありません。

仕事は決して楽しいものではありませんし、自己実現の場でもありません。

しかし、組織に属している以上、何かしらの成果を出す必要があります。

その中で、いかにリスクを取って、それを形にするか。そして、それにより組織に様々な影響を与えることができるか。

いろんな考え方があるでしょうが、私はそのような考えで仕事をしてきました。

しかし、いきなりそのようなことができるわけがありません。慣れるまではそれまでのやり方を踏襲することが重要です。

そして、それが理解・実行できるようになれば、自分のエッセンスを加えていく。

最後は独創性がポイントであると考えています。

ひとの良いところを取り入れ、自分なりにアレンジし、自分のブランドにする。

このプロセスが近道のように思います。

ゼロからすべてを始めるのは大変です。

私は「日本で最初のコモディティ・ストラテジスト」という肩書を勝手に作り、コモディティ(金とか原油などの商品です)の市場における投資戦略の立案という仕事を確立しました。

当時は株式市場でアナリストやストラテジストがもてはやされる時代でした。

しかし、コモディティ市場でそのような肩書で仕事をしているひとはいませんでした。

そこで、証券市場では普通のことを、コモディティ市場に持ち込み、新たなフィールドを確立したわけです。

当時は日本でコモディティ市場の分析をする専門家はいませんでした。ここに目を付けたわけです。

そのバックボーンになっているのは、金融市場のやり方ですが、そのやり方を導入し、自分でアレンジしてブランド化したわけですね。

もちろん、その分野に精通していないと話になりません。結果も必要です。

幸い、私はその仕事を初めた3年後の2004年以降の原油高をいち早く予測し、世界に発信したことで市場から評価され、コモディティ市場での地位を確立することができました。

このような機会が到来したことは非常に運が良かったのですが、時流に乗ることも重要です。

2008年までのコモディティブームで、コモディティが金融市場でも重要な位置づけになり、いまだにこの仕事ができていることは、大変運が良かったといってよいでしょう。

いまは日本でもコモディティ専門のアナリストやストラテジストがいますが、私はその先駆けだったわけです。

また、コモディティ市場を分析する際には、金融市場もよく見る必要があります。

そのような癖をつけていたことが、いまのように株式・為替などの分析でお声が掛かるようなったといえます。

私は他の仕事をしたことがないのでわかりませんが、扱う商品やサービスが異なっても、基本的な考え方ややり方はそれほど違わないように思います。

古いことや伝統的なことを一ひねりするだけで、新しいものになるかもしれません。

無から新しいものを作る労力は大変ですが、上記のような発想で行動すれば、近道でゴールにたどり着くことができそうです。

一つの考え方として参考になればと思います。

おかげさまで、新刊「1ドル65円、日経平均9000円時代の到来」(ビジネス社)の販売が好調に推移しています。

マーケットが不透明であることも影響しているのでしょう。

今年の円高・株安の理由や日銀の政策の問題点など参考になる点は少なくないと思います。

ぜひご一読ください。

マーケット人生物語~私の人生を変えたアノ事件・第2回

住商に入社して、一年目・二年目は一番下で、主に現物取引の在庫・デリバリー管理を担当していました。しかし、これを一定程度やれるようになると、次のステージに行くというのがお決まりのパターンです。

もちろん、次のステージというのは、マーケットに関する業務です。その業務につくために、私は着実に実績を上げていくことを目指し、目の前の業務をしっかりとこなすことに注力するようになりました。

しかし、当時はまだバブルの余韻が残っており、仕事量も多く、毎日のように残業していました。飲み会などに誘われても間に合わないこともあり、時間管理も大変でした。

休日に出勤することも少なくありませんでした。独身寮に帰宅してからも、自室からNY在の取引相手に電話して、銅を運搬している船の運航状況や船積書類の確認などの仕事をすることもありました。

当時はひとりに一台パソコンがある時代ではなく、まして携帯電話もありません。いま思えば、通信環境は今と比較にならない状況でしたが、それでもやっていけていたわけです。

たまに、顧客との接待に連れ出されることもありました。当時は顧客も余裕がありましたので、それこそ「飲めや、歌えや」の世界で、「おいしいものを食べて、二次会に行き、帰りはタクシーチケット」がお決まりのコースでした。

いま思えば、これもある意味ですごい世界でした。

タクシーが捕まらない!バブル時代の狂想曲

お店を予約するのも大変、二次会は大盛り上がり、タクシーは捕まらない。

ひどいときには、「タクシーが捕まるまで飲もう!」という話になり、一番下の私が飲みながらもお店の電話でタクシー会社に電話し続ける始末でした。

当時の住商のタクシーチケットは10社対応の、まさにプラチナペーパーとも呼べるタクシー会社数でした。

そのため、「いずれどこかに電話はつながるだろう」と楽観していましたが、実際にはつながりません。それほどの時代でした。

結局、タクシーが捕まったのは明け方、始発電車があるのにタクシーで帰る。こんなバカなことが普通に(?)行われている時代でした。

バブルを知る世代の方々には違和感はないでしょうが、40代半ばより若い方々には理解できないでしょう。

やはり、行き過ぎると、その揺り戻しは小さくありません。ここから日本は「失われた20年」に突入したわけですから。

いや、個人的にはまだその時代は続いていると考えています。現在の政治方針や金融政策などを見ていると、この状況が続き、「失われた30年」になりかねないでしょう。

それはともかく、このように一番下でまさにいろんなことをこなしていました。

入社三年目。初の海外出張では苦い思いも経験

三年目に入るときに、後輩社員が入社してきました。関西出身で優秀な人物でした。彼とはいまでも交流があり、ことあるごとに会って飲んでいます。

彼は私が知る限り、最も頭の切れる市場関係者のうちのひとりだと思います。

彼が入社し、私は彼を担当する「プロモーター」という役割を持つことになりました。つまり、仕事のやり方だけでなく、住商マンとしてあるべき姿も教える立場になったわけです。

当然、彼も私がやってきた仕事を担当することになります。私は仕事を教えながら、徐々に引継ぎをしていきました。彼は優秀でしたので、非常にやりやすく、業務の移行は非常にスムースに進みました。

この間、私ははじめて海外出張に行きました。ほとんど英語も話せない状態でしたが、経験を積ませる意味もあったのでしょう。

最初に行ったのが韓国でした。相手も英語ができず、結局は住商のソウル支店の日本語が話せる現地スタッフと顧客に向かい、彼が通訳してくれるというパターンでした。

韓国といえば、韓国料理です。特に、最初に連れて行っていただいた、現地のレストランで食べた参鶏湯の味は忘れられません。ほんとうにおいしかったです。

食事は海外出張の楽しみのひとつですが、まさにそうなりました。

しかし、遊びではなく、出張ですから、そんな楽しい思い出だけで終わるわけがありません。特に韓国は夜の接待が強烈でした。

結局、住商時代にソウルには3回出張しましたが、すべて相手方のお酒の攻撃に撃沈しました。最初の出張の時には、完全に泥酔し、ホテルで朝を迎えた時にはスーツを着たままだったということもありました。

出張の苦い思い出ですが、いまとなっては良い思い出です。商談は上手くいきませんでしたが、このような感じで徐々に経験を積みました。

入社四年目。目標の第一段階へ到達

そして、後輩に仕事を移管した後は、とうとうマーケットの仕事につくことになりました。四年目に入るときです。

当時の住商の銅地金取引は、世界の消費量の5%を占めているといわれていました。そのため、私の上司は世界の銅市場で「ミスター5%」というニックネームを付けられていました。確かに、当時の銅取引量は5%程度ありました。

しかし、のちにこれがすべて虚像だったことが判明するわけですが...。

まず、私は銅現物取引の価格ヘッジを行う業務につきました。主な業務は、現物価格とマーケット価格のリスクを管理する仕事です。現物取引を行えば、その価格はマーケットで決まります。その価格変動のリスクをヘッジするのが仕事です。

商社は生産も消費もしません。基本的には生産者から銅地金を買い付け、消費者に売ります。その間の価格差やなどを収益にするわけですが、在庫を持つことも少なくありません。

当時の住商が銅市場でシェアを拡大できたのは、在庫をもってリスクを取りながらビジネスを行っていたことが背景にありました。

在庫を持てば、いつ売れるかはわかりません。その間に価格が下がると損失が出ます。これらの価格変動リスクをヘッジするのが新たな業務になったわけです。

しかし、すぐにトレードできるわけではなりません。ヘッジの仕組みを理解する必要がありました。当時、日本では価格ヘッジを勉強するためのよい教科書がありました。それを私は集中的に読みました。

しかし、自分が経験していないことを、本だけで理解するのにはやはり限界がありました。苦しみながら、上司にも助けをもらいながら、何とかその仕組みを理解し、ようやく業務につけるところにまでこぎつけました。

私はとうとう、自分の目標としていた第一段階に到達したわけです。

しかし、ここが苦難の道のりの始まりでした。

つづく。