「マーケット人生はまさに波乱万丈」~江守 哲の「マーケット人生物語」(第1回)



はじめにあたり

みなさん、はじめまして。

江守 哲と申します。

このたびは、mineの執筆陣に加わることになり、大変光栄に感じております。

こちらでは、これまでの経験を基に、様々な角度からいろんなことについて語っていきたいと思います。

いまの仕事は、マーケット分析や投資戦略の立案です。したがって、これらの内容が中心になると考えるのが普通ですが、ここではそれにこだわらないようにしたいと考えています。

つまり、私のパーソナリティを前面に出し、様々なことについて自分の考え方ややり方をお伝えできればと思います。

もちろん、マーケット分析や投資戦略の考え方もお伝えしていきます。特にヘッジファンドの投資戦略に関する考え方は、参考になる部分が多いかと思います。

私のこれまでの人生は、普通のサラリーマンからみれば、なかなか面白い人生ではないかと思います。

私は大学卒業後に大手商社に勤務しました。しかし、私の直属の上司が10年以上にわたり簿外取引を行っていたことが分かりました。結局、私が中心になって、ロンドンで2600億円の損失確定処理をしました。

その後、ロンドンで外資系企業に移籍し、日本人は私一人という環境で仕事をする経験をしました。かなり無茶な転職ではありましたが、本物のプロの仕事ぶりを見ることができたことは、のちの大きな財産になりました。

帰国後はコモディティ・ストラテジストに就任し、2004年の原油価格の高騰を的中させたことで、世界的に知られるようになりました(この年に、初めて原油価格が1バレル=40ドルを超えました)。

その経験を生かして、移籍した投資顧問会社ではオリジナルのコモディティ・ヘッジファンドを立ち上げ、リーマンショックが発生した2008年には、原油の空売りでファンドに収益をもたらしました。

商社および外資系企業時代を通じ、コモディティ現物取引は10年ほどの経験があり、世界30カ国の顧客と実需取引を行いました。南米の鉱山や中東も訪問しました。もちろん、中国などのアジアの多くの国を訪れました。

コモディティ現物取引、ストラテジスト、トレーダー、ファンドマネージャーという、幅広いキャリアを持つマーケット関係者は、日本において私だけだと思います(私が知る限りですが)。

このような経験から、マーケットの真髄、ヘッジファンドの投資戦略の構築の仕方や思考経路など、様々なことをお伝えできるかと思います。

また、私は大学まで野球をやり(バリバリの体育会です)、いまは中学生の軟式野球のクラブチームでコーチをしています。息子が始めたことから数えると、もう15年になります。

最近は野球人気が低迷しており、寂しい思いもしていますが、それでも野球少年はたくさんいます。毎週、彼らとグランドで汗にまみれながら練習・試合をしていると、勝ち負けはありますが、気持ちと身体がすっきりします。

チームの勝利・選手の活躍を見ると、うれしくてたまりません。コーチをやっていてよかったなぁと感じる瞬間です。

このように、野球・スポーツ好きですので、これらの話題についても少しばかり書かせていただければと思います。

mineでの執筆が私の新しい出発であると同時に、読者のみなさまとの新たな出会いでもあります。

ぜひご意見などもいいただければと思います。

さて、最初は、冒頭にお話しした、私の「マーケット人生物語~私の人生を変えたアノ事件」から始めることにしたいと思います。これは定期的に載せていくようにします。ぜひ継続的にご購読いただければと思います。

その前にお知らせです。新刊「1ドル65円、日経平均9000円時代の到来」(ビジネス社)が出版されました。

題名は衝撃的ですが、中身はいたってシンプルです。

今年はなぜ年初から年高になったのか、株価が下がったのか。この本を読めば簡単に理解できます。ぜひご一読ください。

マーケット人生物語~私の人生を変えたアノ事件・第1回

私は1990年4月に社会人になりました。就職先は住友商事でした。当時はいわゆるバブル景気の真只中だったこともあり、大学同期の就職先は金融・商社・不動産に集中していました。

就職自体はいまとなっては、考えられないほど、楽なものでした。

入社後、2週間の新人研修を終え、私は配属先に向かいました。非鉄金属本部に配属となり、本部長(役員)から「彼が君の上司だよ」と紹介されたのが、当時「ミスター5%」と呼ばれていた、世界的にも有名な方でした。

これが、私の「マーケット人生」の始まりになるとは、そのときは全く想像できませんでした。

私は、非鉄金属本部の非鉄地金・原料部の銅地金チーム(いわゆる課です)に配属されました。最初は「地金」を「ちきん」と呼ぶほど、世間知らずでした(もちろん、「じがね」です)。

配属されたチームは、前年に全社でもっとも優秀な成績を収めた「社長表彰」を受けた、活気のある部署でした。そのような部署に新人が配属されるというので、周りからものすごく注目されました。

しかし、体育会野球部に所属し、一日の大半は野球をして過ごす生活をしていました。そのため、大学時代はほとんど勉強もしませんでした(言い訳ですが)。唯一勉強したといえるのは、教職課程を修了したことぐらいでしょうか。

このような状況ですから、就職活動もほとんどした記憶がありません。採用された年は1989年。まさにバブルの絶頂期でした。大学野球部の先輩が勤めている会社の中から選ぶことぐらいで、「どこに行こうかな」とまさに能天気なことを行っていました。

教職課程の一環で、出身高校に教員実習で実家に帰った際、父親に「商社に行こうと思う」と話し、「住友商事と伊藤忠商事だとどちらがいいかなぁ」と聞きました。当時、父親はホテル関係の仕事をしており、ちょうどアサヒスーパードライが売れ始めており、ホテルでも取り扱いを増やしていました。アサヒビールが住友系列であることもあり、「住商がいいよ」と言ってくれました。また、ホテル業の前に行っていた木材関係の仕事で、住商と付き合いがあったことも、私に住商を勧める理由になったようです。

そんな感じで、帰京した際に、住商に勤務している野球部の先輩に入社したい旨を話し、複数の大先輩方とお寿司をつまみながら「わかった、会社に言っておく」といわれ、その場は終わりました。数日後、面接があり(一般学生と一緒でした)、私は野球部の制服である学生服で面接に臨み(慶応大学の体育会生は学ランが基本です)、当たり障りのない話をしました。2回ほど面接を受け、程なく内定となり、私の就職活動はあっけなく終わりました。

しかし、このような形で入社した人間が、すぐに大手商社で使い物になるはずもありません。研修中に振り分けられた英語のクラスでは、下から2番目のクラスで、英語を理解できない人間として扱われました。商社マンとしては最悪でした。(その後、128人の同期入社の中で、先進国の首都に最初に赴任したのが私だったのは、いまでも不思議です(笑)。)

このようなレベルの新人でも、即戦力として鍛え上げるのが商社のやり方です。給与を払う分だけ働いてももらわないと、会社としても困るわけです。最初は伝票処理などの事務作業をやりましたが、つい数か月前まで一日中グランドにいた人間ですから、とにかく椅子に座っていることができません。事務作業などもっとも向いていない仕事で、パソコンの前で居眠りしてしまい、先輩の女子社員に起こされたこともありました(笑)。

その後、事務処理を卒業し、今度は在庫管理・デリバリー担当になりました。銅地金チームは、いわゆる銅地金の現物に関する国内販売・貿易を行っていました。銅地金は、電線や銅管などの原材料になる、概ね1メートル四方、厚さ1センチほどとの銅の板です。銅の純分は99.95%以上です。銅は「産業のコメ」と呼ばれるほど重要な原料であり、インフラ整備に欠かせません。そのため、世界各地で消費されています。そして、価格はロンドン市場で決まっていました。

私が銅地金チームに配属されて嬉しかったのは、この部署にいると、ロンドンで仕事ができる可能性があるという点でした。大学最後の卒業旅行で、私は欧州6都市に行きました。その中で、もっとも気に入ったのがロンドンだったのです。配属され、仕事の中身がわかってくると、「将来はロンドンで仕事がしたい」と思うようになりました。この点で、配属された先は、私にとって最高の部署だったわけです。

さて、その銅地金の取引ですが、顧客は国内だけでなく、世界各地にいました。その中で、最初は国内の銅地金の物流と在庫を管理し、顧客とその日程などを打ち合わせる業務を担当しました。これに失敗すると、顧客は原料の手当てができなくなり、製品の生産ができなくなるなど、大変な迷惑をかけることになります。しかし、このような仕事は苦手で、よく失敗しました。デリバリーの日程を間違えたり、デリバリーそのもののアレンジを忘れていたこともありました。上司からは何度も怒鳴られ、最悪の日々を過ごしました。当然、勤務時間も長くなり、プライベートの時間はほとんどありませんでした。

私の当時の直属の上司はある意味では最悪のひとでしたが、私を発奮させてくれたという意味では最高の上司でした。人前で怒鳴りつけて、自分の強さを誇示する、いわゆる弱い人間の典型的なパターンのひとでしたが、私は大学時代に先輩方から厳しい愛のムチをいただいていたので、全く堪えませんでした(笑)。口だけで、手が出ない分だけ、かなりラクでした(当時の大学時代は普通に手や足が飛び交う、厳しい世界でした。いまではあり得ませんが)。

そんな上司がロンドンに駐在になるということで、私の目の前から居なくなることを素直に喜びました。と同時に、彼が帰国する際には、代わりに自分が駐在に行くという目標が出来ました。入れ替わりになれば、一緒に仕事をする必要がないですから(笑)。そんなことで、業務にもこれまで以上に真剣に取り組むようになりました。

業務に慣れてくると、いろいろやりたことも出てきました。それが、マーケットの仕事です。銅はいわゆる相場商品です。ロンドンで価格が決定する「国際商品」です。このマーケットで活躍するにはどうすればよいか、日々考えるようになりました。そのためには、それまでの現物取引の在庫管理から次のステップに進む必要がありました。まずは現物取引の営業で実績を挙げることが求められました。ここから、私は目標に向かって一気に進み始めました。

つづく。