「マーケット人生はまさに波乱万丈」~江守 哲の「マーケット人生物語」(第5回)

トランプ大統領が教えてくれた考え方を変えることの重要性

みなさん、こんにちは。

前回からかなり間が空いてしましました。

頑張ってキャッチアップしていきたいと思います。

前回から年が変わり、米国の大統領も正式に変わりました。世の中は大きく変化し始めています。

1月20日の就任式以降、トランプ米大統領の言動に注目が集まる日々が続きました。

トリッキーな言動に辟易とするひとも多いでしょうが、現実にトランプ氏を米国民が選んだわけですから、それを前提にいろいろ考えるしかありません。

トランプ大統領の誕生は、実は私にとってきわめて大きな影響がありました。

それは、「固定観念や好き嫌いで物事を判断してはならない」ということを気づかせてくれたからです。

これまでも、そうあるべき、そうすべきと考えてきたつもりでしたが、実際にはなかなかそこまで割り切って行動してきたとは言えませんでした。

しかし、トランプ大統領の誕生で、気持ちと行動が一致するようになりました。

私は仕事柄、トランプ大統領の誕生が株式市場や為替市場、債券市場やコモディティ市場にどのような影響があるかを基準に考えます。

そして、当初はトランプ大統領の誕生は、これらの市場にはネガティブな影響が大きいと考えました。その背景には、トランプ大統領に対してあまりよい印象がなかったことがあったことは事実です。

しかし、実際にトランプ氏が大統領選で勝利し、その後の市場が事前の大方の予想と全く逆の方に動き出しました。無論、私の見方も大きく外れることになりました。

11月の途中までは、「そんなはずはない」と考え、市場の動きと逆の行動をとっていましたが、それでは当然うまくいきません。

結果的に、市場から離れて、様子を見ることになりました。しかし、この時間が貴重なものになりました。

結局、今回の米大統領選とその後の市場動向で再確認させられたのは、「好き嫌いや感情で判断してはならない」ということでした。

そう思いなおしてから、年明けから考えを完全に切り替え、トランプ大統領が進めると考えられる政策のポジティブな面をみるようになりました。

そして、ビジネスマン出身のトランプ氏が、米国経済にダメージを与えるような政策を取るはずがないと考えるようになりました。また、閣僚候補たちもかなりの重鎮ばかりであり、安心感があると判断しました。

そこから市場に対する見方や考え方を一変させました。これが功を奏しました。

昨年11月以降、これまでの市場動向を振り返ると、大統領選後の市場動向はいまだに変わっていません。非常に良いタイミングで考えを切り替えることができたと思います。欲を言えば、もう少し早ければ、もっとよかったのですが。

市場関係者の話を聞いていると、いまだにトランプ批判を繰り返す人がいます。それが仕事なので仕方がない方もいますが、少なくとも市場関係者であれば、本来であればとっくに退場になっているはずです。

いまはそれほどの歴史的転換点を迎えているといえそうです。

考え方を変えるのは勇気が要ります。しかし、プライドが邪魔をすると、最悪の結果になります。

我々が所属している市場という世界では、「朝礼暮改」どころか、「朝礼昼改」あるいは「朝礼朝改」でもよいとさえ言われます。極端に言えば、自分の言葉や考えに固執していると、市場から退場を食らうということです。

今後のトランプ政権の方向性はまだ明確には見えてきません。しかし、現時点でそれを否定することも意味がないと考えます。

また欧州では様々な政治リスクがあることから、これを取り上げて、「世界の政治リスクが市場を崩壊させ」などを煽る向きもあるようです。

しかし、そのようなことを考えていると、資産運用などできませんし、ましてその考えに従って空売りしていれば、いまごろどうなっているかは容易に想像がつきます。

市場を煽る声には耳を傾けず、より本質的なことを理解するようにしたいところです。

個人的には、米国経済や株価に大いに注目しています。いまの米国市場は歴史的な動きに入ったと考えています。

この点については、毎週更新している「投資の哲人~ヘッジファンド投資戦略のすべて」で解説していきたいと思います。



マーケット人生物語~私の人生を変えたアノ事件・第5回

非鉄金属取引をしている者にとって「聖地」とも呼べる場所がロンドンでした。なぜなら、非鉄金属価格が決定される市場がロンドンあるからです。

世界の非鉄金属価格のベンチマークとなる価格が決定されるのが、ロンドン金属取引所(London Metal Exchange=LME)です。これはいまも変わっていません。

近年では上海にも先物市場があり、NY市場でも長年取引されていますが、やはり世界のベンチマークとなると、いまだにLME市場がその位置づけにあるといえます。

そのロンドンに出張が決まると、落ち着かない日々が続きました。ロンドンに行くのは、大学卒業時の旅行以来でした。

当時は6か国(6都市)を訪問しました。もちろん、海外行くのは初めてでした。その中で、最も気に入ったのがロンドンでした。それもあり、商社に入ったからには、何としてでもロンドンに仕事で行きたいと考えていました。

入社して、これほど早いタイミングでロンドンに行くことができたことは、本当に幸運でした。

その一方で、ロンドン出張を控える中、日々のトレードは継続していました。現物取引から発生するリスク管理を含め、大量のポジションを管理・運営しなければならず、いまから振り返ってもかなり大変な仕事でした。

まだ入社して5年目の社員に任せるには、あまりに大きなポジションだったといえるでしょう。私が上司だったら、任せることができたか疑問です。それくらい、大きなポジションでした。

ロンドン出張はゴールデンウィーク明けに行くことになっていました。5月6日が私の誕生日で、出張の出発は7日でした。誕生日は自宅で簡単なお祝いをし、その後はいつものように仕事をしていました。

出張前ではありましたが、相場の動向が気になり、ポジションも維持していました。

銅相場は膠着していました。92年に戻り高値をつけたあと、93年には夏場の一時的な戻りを除いて、ほぼ一貫して下落しました。その後は年末まで下落基調が続き、12月に入ると底打ちから反発基調に入りました。

94年に入ると、上昇基調を強め、銅相場は93年10月につけた安値の1612ドルから3月には1980ドルまで上昇していました。しかし、前年の戻り高値である2020ドルを超えることなく反落したため、そこからショートポジションを積み上げていきました。

しかし、相場は思うように下がらず、底這い状態になり、再び上昇し始めました。私は「どうせまた下げるだろう」と安易にショートポジションをさらに積み上げていきました。

しかし、5月6日の誕生日に、銅相場はこれまで高値を超えて、一気に吹き上げたのでした。

それまで2000ドルを下回って推移していた銅相場は、その日のロンドン市場で急伸し始め、その日だけで60ドルも上昇しました。一日で3%も上昇することなど、当時はあまりみられなかったため、この動きは完全に想定外でした。

結局、相場が上げる一方で、上昇局面で売り乗せてしまったことから、損失がさらに拡大することになりました。

本来は、現物取引のヘッジから派生しているポジションですので、無用にポジションを積み上げる必要はありませんでした。しかし、許されている枠の範囲で目いっぱいのポジションを積み上げてしました。

結局、損切りできないままその日の取引を終え、週末を迎えました。予定通り、ロンドンに出発せざるを得ず、大量のショートポジションと損失を抱えたまま、機上の人となりました。全く気が乗らない、出張の始まりでした。

ロンドンの到着し、週明けに事務所に行くと、早速東京から電話がありました。当然、現在のポジションと損失の説明をしなければなりませんでした。

このままでは規定を超える損失になるため、やむなくポジションは損失確定となりました。確か数千万円の損失になったはずです。

振り返ると、5月6日が実は急伸相場の始まりだったことが、あとになってわかりました。93年10月には1612ドルだった銅相場は、5月6日に2000ドルを超えると、95年1月には3075ドルまで上昇したのです。

私の損切りの日からわずか7ヶ月で50%を超える上昇になったことを考えると、あのときに処理して正解だったと今は思えます。

いまになってチャートを見て振り返ると、それは恐ろしい上げ方をしていました。

このときに、まさに「Trend is Friend」という言葉を再確認しました。トレンドを重視したトレードをしないと、大きな損失につながるということです。

特に、コモディティ相場では、逆張りは非常に危険な行為といえます。

このときは会社に大きな迷惑をかけましたが、その後の相場でおつりがくるほど取り返すことができました。

しかし、それは想定外でのことでした。

バースデーの取引で損失を出した後は、非常に苦しい日々を過ごすことになりました。しかし、担当も引き続き変わらず、粛々と日々の価格リスクのヘッジ業務を繰り返すことになりました。

この時の上司の寛大な処置には本当に感謝しました。

そして、いずれは損失の一部でも返さなければならないとか投げていました。そのような気持ちを常に持ちながら、そのチャンスを待ち続けました。

しかし、一度損失を出すと、正しい判断を行うことは難しくなり、思い切った判断はとてもできる状況ではありませんでした。

とは言いながら、毎日のように市場をみているわけですから、その好機が来る目が養われていたことだけは確かなようでした。

当時担当していた現物市場で発生した価格変動リスクのヘッジでは、ドル建てで取引される銅価格のリスクだけを管理していればよいわけではありませんでした。

日本の顧客への販売や原料の買い付けでは、当然のように為替の変動リスクを持つことになりました。海外からの輸入や海外への輸出でも為替リスクが発生していました。

この為替リスクの管理も私の担当でした。つまり、現物価格だけでなく、そこから発生する為替リスクも併せてヘッジ・管理する必要がありました。

私が社会人になった90年のドル円は160円台でした。しかし、そこがピークで、その後は下落トレンドが鮮明になり、90年10月には123円台にまで下落するなど、暴落ともいえる下げになっていました。

しかし、その水準が底値になり、91年6月には142円まで戻すなど、かなり激しい動きとなっていました。結局、その戻りが天井となり、そこから円高トレンドが鮮明になりました。

そして、94年6月にはとうとう1ドル=100円を割り込みました。まさに歴史的な動きを体験することになったわけです。

その後は96円から102円のレンジで推移する期間が続きました。しかし、95年3月に96円を割り込むと、そこからさらに歴史的なドル円の暴落となったのです。

この動きを見ながらも、私は銅価格の変動リスクの管理とともに、為替ヘッジの取引を行っていました。本来、為替リスクは取るべき立場ではなかったので、輸出入のタイミングのずれにより発生する為替ポジションについては、ほぼ機械的にヘッジするようにしていました。

しかし、ドル円の基調は明らかに下向きでした。100円を割り込むあたりから、「これはとんでもない動きになるのではないか」と考えるようになりました。

結果的にこの見方が、バースデー取引での損失を返済し、余りある利益を上げるきっかけになりました。

つづく。