連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」 赤々舎の写真集を読む

2017年10月15日に写真集食堂めぐたまにて開催された「飯沢耕太郎と写真集を読む」

今回は、2006年に赤々舎を立ち上げ、数々の写真集を世に送り出してきた姫野希美さん(赤々舎代表取締役・ディレクター)をお招きしました。赤々舎の出版・編集のあり方についてさまざまな角度からお話しいただき、いくつかの写真集については写真家とのエピソードも伺いました。

ウェブマガジンmineでは、1万文字を超えるボリュームたっぷりのレポートを掲載しています。

(※対談は有料版となっておりますが、冒頭のみ無料でお読みいただけます)







【目次】

◆触れれば切れるような“写真家”という存在

◆赤々舎の赤

◆写真と言葉の関係性

◆写真集のデザイン、本のかたちにするということ

◆写真家は手に負えない

◆思いがけない出会いから



【イベントで取り上げた写真集・写真家一覧】

佐内正史『生きている』(1997年・青幻舎)、大橋仁『目のまえのつづき』(1999年・青幻舎)、徐美姫『SEX』(2006年)、志賀理江子『CANARY』(2007年)『カナリア門』(2009年)『螺旋海岸|notebook』(2013年)『螺旋海岸|album』(2013年)、齋藤陽道『感動』(2011年)、アントワーヌ・ダガタ『Anticorps 抗体』(2014年)『赤穴』(2017年)、長島有里枝『SWISS』(2010年)、茂木綾子『travelling tree』(2013年)、林典子『ヤスディの祈り』(2016年)、金山貴宏『While Leaves Are Falling...』(2017年)、津田直『SMOKE LINE』(2008年)、石川竜一『絶景のポリフォニー』(2014年)『okinawan portraits 2010-2012』(2014年)、奥山由之(2017年12月刊行)、李岳凌(2018年1月刊行)



「飯沢耕太郎と写真集を読む」はほぼ毎月、写真集食堂めぐたまで開催されています。(これまでの講座の様子はこちら

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 (2017年10月25日開催・写真/文 館野 帆乃花)

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◆触れれば切れるような“写真家”という存在

飯沢: 「写真集を読む」というイベントを3年程前からやっていまして、私がひとりで話すこともあれば、ゲストの方を呼んで一緒に写真集を読み解くこともあり、今回で32回目を迎えました。今日は、ゲストに赤々舎の姫野希美さんをお呼びしています。赤々舎はご存じの通りこれまでたくさんの写真集を出版してきた出版社です。2006年にできて、約10年になるわけですが、ここ10年間の日本の現代写真を考えるときに赤々舎抜きでは成り立たないというくらいの充実したお仕事をされています。赤々舎の写真集が出る度に驚きがありまして、姫野さんの頭の中はどうなっているんだ、どうやってこういう写真家を見つけてくるんだ、と思うわけですが、今回はそういう話をいろいろと聞いていきたいと思います。最初に自己紹介もかねて、赤々舎ができるまでの経緯を簡単にお話いただければと思います。

姫野: 今日はお招きいただき、ありがとうございます。2006年の春には一応、赤々舎を作っていましたが、それまでは京都にある青幻舎という出版社におりました。私は大学が長く、大学院では古典の和歌の研究に夢中だったので、そのまま大学に残ろうかなと思っていたんです。大学院の博士課程のときは時間があったので京都書院という出版社でアルバイトをしていて、船越桂さんなどの彫刻家の作品集を作らせてもらっていましたが、写真に格別関心があったというわけではありませんでした。

飯沢: それで編集の仕事に興味を持ち始めて、青幻舎に入られたのかと思いきや、上海に行くんですよね?

姫野: そうなんです。私が大学院生の頃の上海はバブルの走りみたいなときで、上海に行ったときに街と人に惹かれてしまい、ここで暮らそうと思って、大学を出て2年ほど上海で不動産の仲介業をやっていました。

飯沢: 青幻舎にはいつ頃からいらしたんですか?

姫野: 知人の紹介で、1995年くらいの青幻舎が立ち上がった頃からお手伝いをはじめて、約10年間お世話になりました。最初は編集者が私ひとりで、割とのんびりとやっていて、数寄屋建築の本や日本の紋様シリーズのようなデザインソースになるような本を出していました。

飯沢: 京都本を出していたりもして、その頃は京都のローカルな出版社という印象でした。ところがいきなり写真集を出します。最初の写真集が佐内正史さんの『生きている』(1997年)。これはどういった経緯で?

佐内正史『生きている』(1997年・青幻舎)



姫野: これはデザイナーの町口覚さんという、マッチと呼ばれている有名な方がいらっしゃるんですけど、彼もまだ無名の20代で、佐内さんと2人で青幻舎を訪ねてきたんです。佐内さんとマッチは写真集を作りたくて何年間か一緒にやっていて、いろんなところに持ち込みをしていたのですが、ことごとく断られていたそうです。印刷会社の紹介で青幻舎を訪れて、社長と私は「写真だって」とか言いながらも、見せてもらいました。そうしたら、たちまちやろうかという話になりまして。

飯沢: 社長が即断したの?

姫野: 即断でした。

飯沢: やっぱり当時の社長の安田英樹さんは面白い人だよね。はっきり言って、これが売れるとは思わないですよね。

姫野: でも、不思議と売れたんですよね。

飯沢: 佐内さんのことはこの頃から私もよく知っていて、彼はこの前の1995年に写真新世紀というコンペで優秀賞をとっています。HIROMIXがグランプリをとった年です。佐内さんは優秀賞をとって、写真家としてやっていこうと静岡から東京に出てきます。でも、その頃は全く仕事がなくて、工事現場で働いていましたよね。

姫野: ちょっと怖かったです。しゃべらないし、眼光が鋭くて。

飯沢: あとで聞いた話ですが、フィルムを買うお金もなくて、空押しでシャッターを切って、頭の中で写真を撮っていたそうですね。そういう時期に町口さんと会って、写真集を作ろうとなった。作っている経過を見たのですが、本当にすごかったです。双子の兄弟みたいで、2人の会話を聞いていても何言っているかわからない。

姫野: 擬音語、擬態語で会話していましたね。

飯沢: ゲゲゲとか、ギギギとか。

姫野: タイトルもそんなノリで付けられそうになったんです。さすがにそれはと思い、いくつか出してもらったなかに「生きている」があって、これにしようとみんなで決めました。

飯沢: タイトルってすごく大事ですよね。出来上がったときには、ヒットすると思っていましたか?

姫野: 全然思っていませんでした。写っているのがガードレールと電柱ですからね(笑)。

飯沢: 身の回りの何でもない風景。でも、見たこともないような空気感があって、見る人の気持ちをぐっと押す力があります。佐内さんと町口さんの写真集づくりに向けて盛り上がっていく気持ちがぶち込まれている。これが最初の写真集だったのですね。

姫野: そうなんです。この体験がすごく衝撃的でした。写真家という人種があまりにも見たことのないタイプの人で、触れれば切れるような強烈な印象を持ちました。

飯沢: 安田社長もこれが案外ヒットしたので写真もいけるんじゃないかと思って、何冊か写真集を出すわけですね。僕は何と言っても衝撃的だったのが、大橋仁さんの『目のまえのつづき』(1999年)です。これは、どういった経緯で出すことになったのでしょうか?

姫野: あるとき、京都に大橋さんと町口さんが現れて。

飯沢: これも町口くんか。

大橋仁『目のまえのつづき』(1999年・青幻舎)



姫野: 持ってきたのはポジフィルムやコンタクトプリントで、まだほとんど構成されていないような状態でやってきたんです。もう少し撮るかもしれないとも言っていました。まだかたちを成していないその塊を見たときにこれまでで最大のショックを受けてしまって。未だにこの写真集が一番、印象に残っているといいますか、原点ですね。

飯沢: 『目のまえのつづき』というのは大橋仁の家族の話で、大きくいえば私写真と言われるものです。やや特殊な家族でお父さんが義理のお父さんでして、その父親が割腹自殺を図った場面が出てきます。

姫野: お父さんは若い頃にバイクの事故にあってから体が不自由だったので、その苦痛をずっと抱えていらして、自殺未遂をしてしまうんですよね。

飯沢: 大橋仁は、父親が腹を切って血がべっとりとついている布団を淡々と撮り続けています。普通に考えれば、気が動転して写真なんて撮れる状況ではない。写真家の“写真を撮る”ということに対する態度を目撃してしまったという衝撃があります。その写真を自分の恋人の写真や家族の日常と一緒に1冊にまとめてしまった恐ろしい写真集といえるでしょう。編集作業は大変でしたか? 姫野さんが大橋仁を殴ったと聞いた記憶がありますが……。

姫野: それは出会ったときですね……。彼は失礼な人なんですよ(笑)。

飯沢: 出会っていきなりぶん殴っているわけだ(笑)。でも、たしかに大橋仁は本当に失礼なところがある。

姫野: そのあともケンカしましたし、荒木経惟さんに「凄絶ナリ。」と帯文を書いていただいたのですが、制作過程も凄絶でしたね……。

飯沢: 大橋仁は荒木さんが大好きで、これはある意味、荒木さんを超えてしまったところもある写真集だと思います。終わり方もいいんですよね。詳しくは写真集を見ていただきたいと思いますが、この静かな終わり方に彼が家族との関係や写真にどのように向き合っているのかが、すっと見えてきます。写真集って、最後のページを綴じたときの余韻。これが大事ですよね。佐内さんや大橋さんの写真集を作っていくなかで写真ってどういうことなのか、写真家ってどういう人たちなのか、ということが見えてきたということですね。



◆赤々舎の赤

姫野: そうですね。そうするとあまりにもこっちが強烈だったものですから、日本の紋様の本とかが作れなくなってくるんです(笑)。今を生きていて、これほどまでに凝縮力のある人たちと出会って仕事をしていると、紋様とか京都の名亭とかが遠くなってきてしまって。でも、会社の経営のためにはそれもやらないといけない。

飯沢: こんな写真集ばっかり出していたら会社が成り立たないもんね。

姫野: それでちょっとあるときに魔がさしてしまい、少人数で本当にひとりくらいでこういうものを出すのであれば、なんとか経営的に成り立つ道もあるんじゃないかと。スイスにSCALO(スカロ)という出版社がありまして、私、SCALOがすごく好きだったんです。SCALOの社長とも何度かフランクフルトのブックフェアでお会いして、大橋さんの本もとても褒めてくれて。一緒にお仕事もさせてもらっていたのですが、SCALOはすごく少人数で良い本を出していたんですね。それで、少人数でやれば可能性があるのかなと錯覚を起こし、衝動的に青幻舎の社長にお話して赤々舎を作ることになりました。

飯沢: そうだったのですね。赤々舎という名前は青幻舎が青だったからですか?

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