女王様のご生還 VOL.151

母が認知症になってからというもの、これまでの人生で一度もなかったほど母に対する関心が強まった親不孝者の私である。



これまでの私にとって、母は良くも悪くも世俗的で凡庸な人間であった。

「良くも悪くも」と言ったが、世俗的で凡庸であることは必ずしも悪いことではないと私は考える。

母のおかげで私は「世間」というスタンダードを学んだからだ。

それを学ばなかったら、私は「世間」を理解できなかっただろう。

私は何かと「世間の基準」を軽視する傾向にあるが、世間の基準を知っていて軽視するのと、知らずに軽視するのとでは大違いだ。



ついでに言えば、私は父とあまり仲が良くなかったものの、彼の独特なマイルールが母の世間的基準と大きくずれていたことにも、今となっては感謝している。

彼の独特なマイルールの存在がなければ、私は世間の基準に疑問を持つこともできなかっただろう。

両親が共有する世間的基準を疑いもなく受け容れていたはずだ。



要するに私は、父のマイルールと母の世間ルールというダブルスタンダードの元に育った。

生育環境にダブルスタンダードが存在するのは、通常、あまり好ましくないものだと考えられている。

子供が混乱するからである。

しかし、この世の価値基準は決してひとつではない。

それを幼い頃から体験し、混乱しながらもいちいち「はたしてどちらが自分的には正しく思えるか」を考える機会を得て、マジョリティの価値観に疑問を持つ癖がついたことは大いにありがたかった。

しかも、「価値基準は自分で選んでいいのだ」と早いうちから気づけた。

これは変わり者の父と世俗的な母という極端な両親を持ったおかげである。



そもそも子供をたったひとつの価値観で育てることにメリットはあるのだろうか?

両親も学校の教師も周囲の大人たちも、みんながみんなひとつの価値観を共有しているようなコミュニティで育った子供は、社会に出た時にその多様性を受け容れることができるのだろうか?

「子供が混乱する」のは悪いことなのか?

混乱するような事態に始終出くわしたら、それだけ自分で考える癖がつくではないか。



とはいえ、親が両極端な価値観を持つ家庭というのは、なかなか成立しにくいものだ。

価値観の対立によって夫婦仲が壊れてしまったら、その方が子供にとっては悪影響ではないか。

いや、それ以前に、そもそも人は自分の配偶者に「価値観を共有する相手」を選んでしまうものではないのか?

そのとおりである。

「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、人は自分と同じ価値観の同胞を好むものだ。

その方が絶対に居心地がいいからである。



だが、この「類友」こそが恐ろしい。

自分と同じ価値観を持つ者とつるむと、その価値観を絶対的なものと勘違いしてしまい、別の価値観を持つ者を排撃するようになるからだ。

特に「家族」という閉ざされたコミュニティにおいてそれが起きると、反抗的という理由で家族から仲間外れにされたり、「出来損ない」の烙印を押されて劣等感に苛まれるという、子供にとってはかなりきつい環境が生まれる。



たとえば高学歴志向の両親のもとに生まれ育った3人の兄弟がいたとして、長男は両親の影響下に優等生として高学歴を積み、次男は両親の価値観を受け継ぎながらも学力的にそれに及ばなかったとする。

次男はずっと自分の不出来を責め続ける羽目になるだろう。

それは彼にとって地獄のような環境だ。

そして末っ子はそのような兄たちを見て育ち、ひとり「この家の価値観はおかしい!」と叫ぶようになったとしよう。

だが、両親も二人の兄も、末っ子が何に怒っているのかまったく理解できない。

末っ子が心の底で味方している次男でさえ、「おまえ何言ってんだよ」と叱りつけてくる始末だ。

末っ子は居場所をなくし、家出したり反抗的な問題行動を起こすようになる。

そして、ますます手の付けられない子として家族から疎まれる。

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