この原稿は、「うさぎ図書館」の後に書いているので、テーマが続いていることをお詫びしたい。
「うさぎ図書館」では、1969年に女優シャロン・テートを含む複数のセレブたちを殺害したマンソンファミリーのスーザン・アトキンスについて語った。
ちなみにこの人ですね。
どこにでもいる、ちょっとかわいい女の子といった感じ。
特に狂気などは感じられないし、もちろんモンスターじみた風貌でもない。
どこから見ても普通の女子。
だが、その内面には黒々とした欲望が渦巻いているのだった。
その欲望を、私は「狂気」とは考えない。
「狂気」とは、他の人々と共有不可能な独特のものだが、彼女の欲望は私たちの誰もが内包しているものである。
それは、「自分は特別な存在でありたい」という選民的なナルシシズムだ。
私たち人間が例外なくこの欲望を持っていることは、人気のアニメや漫画やゲームで一目瞭然だ。
そこには本人に自覚はなくても神や運命から「選ばれた者」が必ず登場する。
ほら、「ハリー・ポッター」なんて、その典型でしょ?
無力で凡庸で人並み以下だと周囲から侮られていた少年が、じつは選ばれた血筋と運命を生まれながらに持っている、という話。
みんな、こういう話が大好きだ。
そして、自分も「選ばれた者」でありたいと強く願う。
その願望は、まったく「狂気」ではない。
ただのナルシシズムだ。
だが、それが幻想であることを人はどこかで学ぶものなのだが、学べない者は少なからずいて、そういう人々がたまに狂気じみた事件を起こす。
しかし、それは「狂気」ではなく「愚かさ」なのだ。
スーザン・アトキンスは家出少女だったという。
彼女の生育環境を私は知らないが、家庭に居場所がなく孤独な少女だったのだろう。
孤独は強い「承認願望」を生み、自分を認めてくれる相手を必死で探し求める。
チャールズ・マンソンはまさにそういう存在であり、彼のマンソンファミリーが彼女の疑似家族として機能したことは想像に難くない。
と、ここまでは非常にわかりやすく、なんなら共感や同情さえ覚える「よくある話」だ。