英語を話せる人が陥る6つのカルチャーショック ハーバード留学記Vol. 6 山口真由



前回は、海外で実際に話されている「英語」について書いてきた。今回は、言葉そのものよりも、言葉の背景にある文化についいて考えてみたい。

「カルチャーショック」という言葉を、私たちはよく聞くけれど、要するに、文化の違いによって、コミュニケーションの方法も異なるのである。

イタリア生まれ、イタリア育ちで、中身はもう完全にイタリア人みたいな男の子がいたとして、けれども、日本人の両親がきちんと日本語を教えていたために日本語も堪能。こういう男の子が、完璧な日本語を使いながら、イタリア仕込みのやり方で会議で発言し、上司に意見をし、女性をデートに誘う。

堪能な日本語で自分の表面的な意志を伝えることはできても、日本文化の中にあっては、彼の人間性は完全に誤解されてしまうだろう。あるメッセージが心の中にあるときに、それをコミュニケートする適切な方法は、個人のキャラクターによって時と場合によって変わってくる。そして、ここには文化の温度差も多分に入るのである。

意志を伝達できるだけの語学力を身に着けることができれば、次は、文化に合わせてコミュニケーションの方法をチューニングするという、次のハードルが待っている。

文化を計る6つの要素について

文化を計る指標は人によっていくつかあろうが、Harvard Business Reviewの「Global Dexterity」という本の中で、Andy Molinskyが紹介している6つの指標が、私にとっては分かりやすかった。

Directness:言いたいことをどれだけ直接的に表現するかという物差し。

たとえば、日本の場合には、子供のお友達がお家に遊びに来ていて、夕食の時間になってもなかなか帰らない時なんかには、「お夕飯、食べてく?」と母親が尋ねに来たりする。そういう経験はないだろうか?

こういうとき、場合にはよるものの、「ありがとうございます! 今日のメニューはなんですか?」って聞くよりも、「ああ、もうそんな時間なんですね。失礼させていただきますね。今日はありがとうございました」っていう答えが期待されていることが多いのは周知の事実。

これは間接的なコミュニケーションの例である。日本の場合には、こういう間接的なコミュニケーションや、文脈を読む、行間を読むことが期待されていることが多い。

それに対して、アメリカの場合には、もっとずっとstraight forward。言ったことはいったままの意味しかない。きつい言い方に聞こえることもあるけれど、含みもなければ裏もないのである。

Enthusiasm:どれだけ感情豊かに表現するかという物差し。

たとえば、アメリカの授業では、学生が教授に質問をした場合、教授は情感たっぷりに”Excellent question!!!”と絶賛する。そして、次の瞬間にばっさりと切り捨てるのである。”But the answer is No…”と。

はじめはすごく驚いた!すごくいい質問と言いながら、答えが”No”なんて、いったいどういうこと???そのうち、私は気づいたのだ。どの質問に対しても、教授は”Excellent!”と絶賛していることに!

“Excellent!” ”Perfect!” ”Great!” “Awesome!” これらの超大げさな単語は、もしかしたら、は日本語でいうところの、「そうですね」くらいの感覚なのではないのか。アメリカのコミュニケーションは、日本に比べて相当にテンション高めなのではないかと気づいた瞬間である。

Formality:どれだけ尊敬を言葉に表すかという物差し。

もちろん、アメリカにも丁寧な表現というのはあるものの、「敬語」という決まったスタイルがあるわけではなくて、全体として表現が非常にフラットだなと感じる。ファーストネームで呼び合う習慣もそうだと思うし、教授の中にも学生からファーストネームで呼ばれることを好む人も多い。教授の見解に対して、学生が挑戦するというのは、特に珍しいことではない。説得に努める教授に対して、「私は納得していません」と繰り返す学生。そんなヒリヒリするようなやりとりでも、教授も学生たちも平気な顔。それは、普段からこういうふうにコミュニケーションを取っている証拠なのだろう。

「もうちょっと声を大きくしてもらえますか?」と、授業中に学生が教授に求め、それでも声が小さいと、「ピンマイクの位置を変えてはいかがでしょう?」とさらに言い募る。これでさえ、日本ならば、むっとする教授も多いかもしれない。上下関係の比較的はっきりした日本の場合には、コミュニケーションスタイルは、アメリカに比べてもっとずっとフォーマルなのだろう。

Assertiveness:どれだけ自信を持って自分の意見を表明するかという物差し。

Directnessとちょっと重なるものではあるが、たとえば、こういう場面を想像していただきたい。会社の内部会議で、上司がある提案をしており、自分としてはその提案がイマイチだなって思うとき(たとえば、スケジュール的に無理があるとか)…

日本的な感覚からすると、とりあえずは発言を控えておいて、自分の意見を求められてはじめて「いいと思います。スケジュールの点については、再度、確認するのが無難かもしれません。」と答えたりする。

特に年次を重視する会社では、求められる前に自ら手を挙げて「ご提案については、スケジュール的に相当な無理があるのではないかと懸念します」というのは、ちょっとリスクがある。

日本においては、個人が存在感を示すよりも、集団の序列に従うことが良しとされる風潮にある。年次に基づく「ヒエラルキー」が比較的はっきりした社会なので、自分より上位のものに対しては控えめであることが求められるのも当然なのである。

それに対して、アメリカは、集団の秩序を無視するわけではもちろんないが、個人が存在感を発揮することが良しとされる風潮にある。自分の存在を可能な限りアピールすることが求められている。社会構造が、比較的「フラット」で、だからこそ、階級に関係なく存在をアピールした人が、頭一歩抜けることができる。こういう構造的な要因も、コミュニケーションスタイルに影響しているかもしれない。

Self-Promotion:自分自身をどれだけ積極的に表現するかという物差し。

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