女王様のご生還 VOL.217 中村うさぎ

大阪の父から電話が掛かってきた。

母が徘徊中に道端で倒れ、通りがかりの人が呼んでくれた救急車でそのまま病院に運ばれたらしい。

「お母さんはもう長くないかもしれない。今帰って来ないと二度と会えないぞ」

と、このように父親に脅され、来月頭くらいに帰省する事にした。



だが、新幹線のチケットを買った後で考えた。

アルツハイマーの母は、どうせ私が誰だかわからないだろう。

奇跡的にわかったとしても、5分後にはもう私と会った事を忘れるに違いない。

そんな状態の母と会ったところで意味あるのか?



母が死ぬかもしれないというのに「どうせボケてるし会う意味ない」などと考える私はつくづく冷血だと思う。

やはり、どこかおかしいのかもしれない。

母が嫌いというわけでもないし、むしろ愛着を持っているつもりだけど、彼女の死を想像しても何の感慨も湧かないのだ。

悲しみも喪失感も哀惜もない。

ただ「ああ、死ぬんだな。もう年だもんな」と思うだけだ。

まぁ、母がボケていなかったら最後の言葉くらいは聞いてやりたい気もするが、今の彼女の状態では会話が成立しないのは明白である。

最後の言葉が「あんた誰?」かもしれないしな(苦笑)。



それでも「死ぬ前にひと目会いたい」と思うとしたら、それはもう死にゆく彼女のためではなく自分自身のためなのだろう。

己の目で死を確認する事で心の区切りをつけたいのか、「最後に会ったからきっと喜んでくれてる」と安堵したいのか。

でも、死んだら脳が停止して意識も感情も消失してしまうのだから、喜ぶもクソもないと思うのだが。

みんな、普段は神も霊も信じていないくせに、魂の存在は信じているのだろうか。

葬式やお墓で手を合わせる時、本気で死者に語りかけているのだろうか。

そこらへんの感覚が私にはわからない。



アスペルガー症候群の動物学者テンプル・グランディンの伝記映画を観ていたら、彼女が愛馬の死にも涙を流さず大好きな恩師の葬式でも「彼はもうここにいないから」と途中で退席してしまうエピソードがあって、「わかる!」と思ってしまった。

私も猫が死んでも泣かないし、友人の葬式でも死者に語りかけたりしない。

そこにあるのはただの屍で、もはや私の声など届かないからだ。

「私が死んでも葬式も墓も必要ないから」……以前そう言ったら、母がぶったまげた顔をして「何をバカな事言ってるの! お墓の要らない人なんていないわよ!」と決めつけ、口論になったっけ。

そうだ、そういう人だった。

自分だって神も魂も信じてないのに、何の疑いもなく葬式や墓は必須だと思い込んでいるような人だった。



その彼女が今、死にかけている。

生死の狭間を漂う夢の中で、彼女は先に逝った親や友人と話しているのだろうか?

もしも死後の世界があるとしたら、きっとそのような夢の世界なのだろう。

天国で神に祝福されたり地獄で悪魔に罰せられたりする世界ではなく、自分が死んでるのか生きてるのか曖昧なまま、死者たちと会って話をしている夢を見ているのだ。

脳が完全に死んでしまうと、その夢も消える。

だから、それは本当に儚く短い夢、死にゆく脳が最後に作り出す幻影の世界だ。

母は今、そこにいるのだと思う。

いや、もうずっと前からそこにいるのかもしれない。

認知症の母はここ何年も、現実と夢の世界を往ったり来たりしていた。

いきなり時間を遡って福岡に住んでいた20代の娘時代に戻ったり、とっくに死んだ祖母がさっき尋ねて来たなどと言ったりして、私は「ああ、起きたまま夢を見てるような感じなんだな、これは」と思っていた。

あれもまた、死にゆく脳が見せていた「生死の狭間の夢」なのだろう。

認知症とは脳の死に支度なのだ。

普通の人が死に際にだけ行ける場所に、何年か早く行ってしまうのである。

そう考えると、認知症も悪くない気がする。

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