女王様のご生還 VOL.187 中村うさぎ

ずっと昔、自分のエッセイで書いたことがあるのだが、ある映画(タイトル忘れた)の中のセリフがずっと心に残っている。

その映画、内容自体はたいしたことなかったのだが、クロスワードパズルばかりやってる妻が出てきて、「何故クロスワードパズルがそんなに好きなのか」という質問にこう答えるのだ。



「だって、世界って不完全じゃない? そして私は、この不完全な世界を変えることができない。でもクロスワードパズルなら、正しい文字を見つけて書き込めば、自分の手で『完全な世界』を完成できる。私はそれが快感なの」



わかる、わかる!

私はあんまりパズルが好きじゃないからやらないけど、その気持ちはすごくわかる!

何かの正解を見つけたと思った時、ある情報を得たことでずっと不思議に思っていた案件に不意に辻褄が合った時、「そうか! そうだったのか!」と膝を打つような発見をした時……束の間、わたしの「世界」は完全になる。

欠けていたピースがぴたりとはまって、ぱぁーっと目の前が開けるような、物事の全体図を見渡せたような、そんな高みに駆け上がるヴィジョンが脳内いっぱいに広がるのだ。

それはもう、言葉では言い表せない快感だ。



人は「完全」を求めずにいられない生き物である。

完全なものなんて存在しないのはわかっているのに、それでも「完全」という幻想を求めずにはいられない。

我々が神を求め宗教を創り上げるのも、「この世界のどこかに完全無欠な存在がいる」と思いたいからだ。

音楽や美術などの芸術も、「完全への到達」という憧れが生み出すものだ。

いわゆる「真善美」ってやつですよ。



世界がこんなにも不完全で不条理であることに、我々は耐えられない。

人が「完全」を諦めていたら、宗教も芸術も科学文明も生まれなかっただろう。

我々はいつでも目からウロコの「解答」を探している。

それさえ見つければ、世界というパズルが完成し、あらゆることに辻褄が合って、心からの充足を得られるんじゃないかと夢見ている。

でも、それは叶わぬ夢なのだ。



それにしても人間は何故、こんなにも「完全」を求めてしまうのだろう?

犬や猫を見ていると、腹が減ったとか飼い主が遊んでくれないとかという不満はあるにしても、欲求がある程度満たされていれば「それでも何かが足りない」などという欠落感はなさそうである。

なのに人間は、「何かが足りない」と常に感じている。

その満たされなさは「居場所がない」とか「愛が足りない」とか「達成感がない」とか「生きている意味が見つからない」などといった抽象的な悩みとして胸の底でくすぶり続け、その悩みを解決する正解さえ見つかればすべてが満たされ幸福になれると思い込んでいるのだが、あいにくそんな都合のいい正解などこの世に存在するわけないのである。



何故なら、世界は不完全なものだからだ。

世界は正解のない設問や解けない謎だらけだ。

それが世界のありのままの姿なのだ。

だから我々も、いつか世界が完結するなどという幻想は捨てて、犬猫のように「とりあえず腹がいっぱいになったから満足、満足」とか「外敵に襲われる心配もなく暖かい寝床があれば、とりあえず世界はそれで良し」という「とりあえず感」だけで生きていれば、永遠に満たされない不満を抱えて懊悩することもなく簡単に幸せになれるはずじゃないか。

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