女王様のご生還 VOL.89 中村うさぎ

久々に両親が上京した。

母はますますボケていた。



到着した日の夜、3人で夕食をとった後、ホテルの部屋でお喋りすることになった。

私は足が悪いので、部屋に入るなり靴を脱いでベッドに寝そべった。

長時間座っていると、足がむくんで歩けなくなってしまうので、隙あらば足を伸ばすようにしているのである。



ホテルの部屋で、椅子に座った両親とベッドに寝そべる娘が談笑する図……まぁ、非常に平凡で平和そのものの家族の姿だ。

と、思ったら!



いきなり、母が黙り込んだ。

これは、不穏な予兆である。

認知症になって以来、母はしばしば何の脈絡もなく突然怒りを爆発させるようになったのだが、その前に必ずこの「緘黙」がある。

今まで喋っていたのが急に黙り込み、顔つきも険しくなって、じっと一点を見つめて固まるのだ。



これはやばい!

そう思いながらチラチラと横目で窺っていると、何やら小声でブツブツと呟き始めた。

「……なんだから……」

「どしたの? お母さん?」

「いいのよ……もう……そうやって私を……にして……」

「え? 何? 聞こえないよ?」

「もういい!!!」



ヒステリックな怒鳴り声とともに、母が怒りに身体を震わせて立ち上がった。

「みんなで私を騙してたのね! そうでしょ!」

「え、騙すって何を?」

「私が知らないと思って! こんなとこにまで乗り込んで!」

「???」

「何なのよ、いったい! 人をバカにするのもいい加減にして!」



始まった。怒りの発作だ。

不気味な緘黙の後に来る、激しい怒りと憎悪。

だが、その理由がわからない!



「お母さん、誰もバカになんかしてないよ。どうしたの?」

「バカにしてるじゃないの! だって、だって……!」

母は父に向き直り、私を指さして叫んだ。

「なんでこの女がここにいるのよーーっ!!!」

「えっ!」

驚いた父が眉を上げる。

「この女って、おまえ……こいつは俺たちの娘じゃないか!」

「娘!? 嘘ばっかり! こんな女が私の娘のはずないでしょ!」

「いやいや。娘だから。お母さん、私、典子だよ」

「典子!? 典子じゃないわよ! この女は……あれでしょ!」

「あれって?」

「私、知ってたんだから! みんな私を騙してるつもりだったけど、私はちゃんと知ってたわよ! この女のこと!」



怒鳴っている間じゅう、母は私を見ようともしない。

決して目が合わないように顔を背け、それでも彼女の怒りのターゲットはどうやら私らしい。

自分の娘が認識できず、赤の他人だと思い込んでいることは理解した。

前にも私のことを忘れたから、もうそのことでは驚かない。

だが、「あの女」とは誰のことだ?

母は私を誰だと思い込んで、こんなにプンプン怒っているのだろう?



「ねぇ、お母さん。とりあえず落ち着いて……」

「だから! どうしてこの人がここにいるの!? 私たちの部屋にずかずか入り込んで、あなたのベッドに寝そべって! 図々しい!」

「……そんなこと言われても……私は足を伸ばしたくて……」

「知ってたわよ! そうよね! この女よね! ずっと知ってた! みんな私が知らないと思ってたでしょうけど、知ってたのよ! でも黙ってたの! そしたら、私が黙ってるのをいいことに、家の中に上がりこんで! ベッドに寝そべって! あなたのベッドに、なんでこの女が寝てるのよ! あれだからでしょ! この女、あれなんでしょ!?」



「あれ」ってなんだ……もしかして、私を父の愛人だと思っているのか?

おぞましくて「愛人」という言葉も口にできないようだが、どうやら母が言いたいのはそういうことらしい。

知らない女呼ばわりはともかくも、まさか「愛人」と思われるとは予想もしなかった。



だが、ポカンとしている私と父を尻目に、母の怒りはますます燃えさかる。

「見て、この女! ほら、こんな短いスカートで足をにょきにょき出して寝そべって! ああ、嫌だ! 出ていきなさい! ここは私たちの家なのよ!」

「おいおい……ここは家じゃないよ、ホテルだよ、おまえ」



あああああ! 父のツッコミがまた的外れ過ぎるーーっ!!!

お父さん、そこじゃないでしょ!

ここが家でもホテルでも、そんなことはどうでもいいんだよ!

問題は、お母さんが、自分の娘をあんたの愛人だと勘違いしてることでしょー!!!

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