幕末、京の都で新選組による池田屋事件が勃発して混乱を極めている頃、新選組の故郷である武蔵国の多摩地方でも、大規模な世直し一揆が発生! 日野宿の治安を取り仕切る若き名主・佐藤彦五郎は、このピンチをどう生き抜いていくのか?
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新選組の活躍と並行して幕末時代の多摩地方を描いていく「幕末日野篇」、第五回をどうぞ!
▼歴史発想源「武心の源流・幕末日野篇」〜佐藤彦五郎の章〜
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【第五回】多摩にも迫る世直し騒動「武州一揆」
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■西日本での戦争の余波で、東日本でも騒乱勃発
将軍警護のために上洛した浪士組を前進とする近藤勇率いる新選組が一揆に世の中にその名を広めたのは、1864年(元治元年)7月8日の「池田屋事件」です。
京都守護職である会津藩のお預かりとなった「壬生浪士組」は、京の市中の治安維持を担当し、尊皇攘夷派の不逞浪士たちをその剣術の強さでビシバシ取り締まっていました。
そんな中「池田屋に尊王攘夷派の志士たちが集まっている」という情報を受けて、新選組は池田屋を襲撃します。
長州藩の吉田稔麿(よしだ としまろ)、土佐藩の望月亀弥太(もちづき かめやた)、肥後藩の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)など尊王派の志士たちが御所焼き討ちなどの密談をしているということで、その多くが新選組に成敗・捕縛されたのです。
この時に新選組は局長の近藤勇自ら突入し、尊王派らによるテロを未然に防いだということで、新選組と近藤勇の名は一気に天下に轟きます。
そして、この池田屋事件での尊王派の襲撃により、長州藩の尊王攘夷派が騒ぎ始め、江戸幕府はこれに対して長州征伐を決行。
江戸幕府と長州藩は全面対決へと突入していきます。
このことが原因の一つとなり、日本の経済に大きな変化が起こります。
物価がものすごく上昇してしまったのです。
将軍・徳川家茂は上洛後に大阪城に入りましたが、多くの幕閣や家臣たちも大阪城についてきたため、一時的に政治の中枢が江戸から大阪に移りました。そうすると、商人たちも大勢大阪へと集まってきます。
大阪の人口が急激に増えてしまうと、当然そこに物流が増えなければなりません。
でも、徳川幕府と長州藩が戦争を始めたので、長州藩が関門海峡の制海権を握っていることから、大阪への瀬戸内海の物流ルートが長州藩によって閉鎖されてしまったのです。
その結果、大阪の物価は10倍以上に膨れ上がり、さらには急変していく事態に備えて各地の諸藩も兵糧や物資を手元に備蓄するようになったので、関西は一気に米不足に陥ってしまいます。
これにより関西の農民たちによる一揆が起こり、「世直し一揆」と称してどんどん各地に飛び火していって、各地の庄屋や米穀商が続々と襲撃に遭いました。
この影響は、江戸にまで及びます。
関西の物価につられて江戸でも物価が急上昇したことで、農民たちの不満が爆発。
品川宿を皮切りに、江戸市中や周辺の宿場町で続々と打ちこわしが始まったのです。
江戸から少し離れている多摩地域にも、この騒動の影響がやってきます。
慶応2年(1866年)、武蔵国秩父郡名栗村(埼玉県飯能市)で、「世直し一揆」を称する農民一揆が勃発します。
これが周辺地域の農民たちの不満の爆発をも誘発し、……