時は幕末、11歳で日野宿の名主の座を継いだ佐藤彦五郎は、ある事件をきっかけに実践型剣術流派「天然理心流」に出会い、免許皆伝の腕前にまで成長していきます。
そして、後に新撰組を率いて京都で華々しく活躍する近藤勇・土方歳三の両人の運命の出会いを作ったのも、佐藤彦五郎がきっかけでした。
地域の治安を守る取りまとめ役として、また近藤勇や土方歳三ら新選組の支援者として、激動の時代の中でその責務を果たして行った佐藤彦五郎。彼はどのようにして多摩に貢献し、またなぜ新選組を無名時代から支えていったのか。その生き様には、現代のビジネスマンが忘れかけた様々なものが見つかるのではないでしょうか。
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新選組の活躍と並行して幕末時代の多摩地方を描いていく「幕末日野篇」、第三回をどうぞ!
▼歴史発想源「武心の源流・幕末日野篇」〜佐藤彦五郎の章〜
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【第三回】日野本陣に武芸者集う「佐藤彦五郎」
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■村と家族を守るために選んだ天然理心流
11歳で日野宿の名主となり、日野本郷3000石の管理を受け継ぐことになった少年、佐藤彦五郎。
周囲の名主や豪農たちの協力を得ながら、佐藤彦五郎は何とか名主としての体面を保ちます。
甲州街道沿いの名主や豪農たちは、「いざという時には、みんなで公方様(江戸幕府の将軍)をお守りする」という共通の目的を持っているので、結束力が固かったのです。
そして、弘化2年(1845年)、佐藤家は周囲の実力者たちとより結びつきを深めようとして、18歳になった佐藤彦五郎の縁談を決めます。
結婚の相手は、日野の隣りの石田村の豪農であった土方(ひじかた)家の娘、土方のぶ。
実は佐藤彦五郎の母・佐藤まさもかつて土方家から嫁入りした女性であり、土方のぶは母の姪にあたるため、彦五郎にとってはいとこでした。
隣り村の豪農の土方家と深く結びつくことで、佐藤家はいっそう、日野やその周辺の人々との信頼関係を深めていくことになったのです。
嘉永2年(1849年)1月18日。
佐藤彦五郎の人生にとって転機となる、大事件が起こります。……