[歴史発想源] <武心の源流・幕末日野篇> 第四回:京の新選組と心は一つ「日野農兵隊」

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の上洛が決定し、近藤勇や土方歳三ら天然理心流の面々は京都へ上って、ついに「新選組」結成!

日野宿の名主・佐藤彦五郎は京都の新選組の活動に対して積極的に経済的サポートを行ないながら、自らも日野の治安を維持するための組織を結成して動乱に備えます。京の新選組の活躍と時を同じくして、佐藤彦五郎もまた多摩地方の動乱の中で大きく活躍していくことになります。

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新選組の活躍と並行して幕末時代の多摩地方を描いていく「幕末日野篇」、第四回をどうぞ!

▼歴史発想源「武心の源流・幕末日野篇」〜佐藤彦五郎の章〜

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【第四回】京の新選組と心は一つ「日野農兵隊」

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■近藤勇たちが江戸の道場を不在にできた理由

文久3年(1863年)、ある大きなニュースが世間を賑わせました。

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が上洛(じょうらく)を行なう、というニュースです。

「上京」というと東京に行くことを指す言葉として今でも使われますが、それに対して「上洛」というのは、京の都(京都)に行くことを指します。つまり、普段は東の江戸城にいる将軍様が西の京都へ行くことになりましたよ、ということです。

今なら東京〜京都間は新幹線を使えば3時間もかからずで行ける距離なのに、それの何が大ニュースなのかというと、「約230年ぶりとなる将軍の上洛」だったのです。

関東で政治を行っている江戸幕府は、長らく京の都にいる天皇の存在はそっちのけでしたが、次第に幕府の権威も弱まってきて、朝廷の発言権が大きくなり始めていた頃でした。

前年に徳川家茂公が皇女の和宮(かずのみや)を妻に娶ったことから、将軍家と天皇家の関係は近づくようになり、ようやく将軍家が京の天皇に歩み寄ることになったのです。

朝廷の権威と幕府の政治を密接に結びつけよう、という政策を「公武合体」(こうぶがったい)と呼ぶのですが、徳川家茂の上洛はまさにその一環とも言えました。

それを利用して出てきた人物が、庄内藩(山形県鶴岡市)出身の志士、清河八郎(きよかわ はちろう)という人物です。

この頃、公武合体・開国路線に進む江戸幕府を大いに悩ませていたのは、江戸の浪士たちがやたら起こす尊皇攘夷運動でした。

「攘夷」というのは異国の連中を追い出すことを指しますが、開国路線を進んでいく幕府を毛嫌いし「やっぱり政治は幕府ではなく天皇が行うべきだ」という「尊皇」の思想と結びついた「尊皇攘夷」の運動が、盛り上がっていたのです。

彼らが、幕府に対する不満を江戸で爆発させていました。

そこで清河八郎は江戸幕府に取り入って、「こいつら尊王攘夷を行なう江戸の浪士たちを、徳川家茂公の上洛を口述にして京都について行かせ、江戸から根こそぎ追い出せばいいじゃん」という策を幕府に献策するのです。

これまで幕府から問われた罪を大赦で免除するから、腕に覚えのある者は「浪士組」に参加して、上洛する将軍家茂公について警護せよ、というプロジェクトだったのです。

将軍の上洛はまたとない機会ですから、江戸幕府はこの江戸の混乱を早くなんとかしなければと、清河八郎の策を聞き入れることにしました。

こうして、江戸中の浪士たちに、「浪士組参加者募集!」のお触れが出されるのです。



その檄に応じて立ち上がった一人が、天然理心流宗家4代目、近藤勇でした。

近藤勇は尊王攘夷運動とは関係がありませんでしたが、甲州街道沿いである多摩地域の人たちは誰もが「公方様のために働く」という意識を強く持っていますから、多摩の農民出身の近藤勇も例に漏れず、「公方様のためになるのならば力になりたい」と名乗りを上げたのです。

そして、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助など、天然理心流の江戸道場・試衛館の仲間たちも道場主の近藤勇に従って浪士組へと参加をしました。

しかし、近藤勇は天然理心流の宗家だから、流派のトップが不在になってしまうと、門下生たちの練習は滞ってしまいます。

それを助けたのが……

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