女王様のご生還 VOL.109 中村うさぎ

前回、「人間は、慢性的な幸福は意識にも留めず、慢性的な不幸だけを心に深く刻み込む」と書いた。

そう、呼吸をしないと生きていけない我々が己を取り巻く空気に感謝することもなく当たり前のように暮らしているように、「慢性的な幸福」というのは「それが普通」になってしまいやすい。

幸福な記憶だけを留めるように脳が設計されていれば、我々はどんなに穏やかで楽しい人生を送れることだろう。



いや、もちろん奇跡のような幸福や成功体験は我々の脳に刻まれやすい。

たった一度のまぐれの成功体験にしがみついて人生を棒に振る人もいるくらいだ。

だが、それが「慢性的」「日常的」となると、あっという間にその幸福は色褪せる。

「慣れ」とは恐ろしいものだ。



だが、人は「慢性的な不幸」にはなかなか慣れない。

たとえば私は、5年かけてようやく自分が歩けないという事実を受け容れた。

受け容れたというより、諦めたと言うべきかもしれない。

もう私は以前のように普通に歩いたり走ったりできない、それは仕方のないことだ……そう思えるようにはなったものの、自分がこんな身体になったことを納得したわけでもないし、今でも自由に出歩けない自分の身体を恨めしく思わずにいられないのだ。



しかし、幸福の方はどうだろう?

愛する人と結婚して幸福の絶頂にいた人が5年後には結婚生活に文句ばかり言っているのを何度も見てきたし、金にしろ社会的地位にしろ自分の欲しいものを手に入れて5年も不平不満を持たない人などあまり見たことがない。

何かしら、人は「不満の種」を見つけてしまうものなのである。

そして、その不満の種がどんどん心の奥で成長し、当初の幸福感はあっという間にそれに駆逐されて存在感を失くしてしまう。



以前、美容整形をしていた頃にも、それは強烈に感じた。

綺麗になった瞬間は最高にうれしくてハッピーだが、半年も経つと自分の顔に慣れてしまい、またぞろ「ここが気に入らない、あそこが嫌だ」と鏡を見るたびにアラ捜しをしてしまうようになる。

そのくせ、逆に顔に傷や痣ができたとか老化によって皺ができたとかいったマイナス事項は、「もう慣れちゃったから全然気にならないわ」などということにはならないのである。

半年どころか何年経っても、人は自分の劣化や老化を諦めきれない。

「本来の私はこんなじゃなかった」という気持ちを払拭できないのだ。

これは私の主治医であるタカナシ院長もよく「人はプラスの変化にはすぐ順応するが、マイナスの変化には順応できない」と言っていた。

でも、それは何故なのだろう?

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