女王様のご生還 VOL.199 中村うさぎ

人間に生まれた以上は否応なく社会というものに属さねばならず、社会には最低限のルールがある。

何者も他者の自由や権利を脅かしてはならないというルールだ。

殺人、レイプ、窃盗などは言うまでもなく他者に対する侵害である。

生きる権利、自由意志の権利、所有の権利などなどだ。

かつて不当に自由を奪われて抑圧されて生きていた女性やゲイや黒人たちは、己の自由を求めて立ち上がった。

フランスが国旗の色に表現して掲げている「自由、平等、博愛」は近代以降の社会の理想である。

それは誰もが認める事だろう。



だが、個々の「自由」の利害がぶつかった時、我々はどちらの自由を尊重するべきか?

たとえば「人を殺したい」「女をレイプしたい」「他人の所有物を自分のものにしたい」といった自由意志は他者への危害に直接繋がるので、これは当然NGだろう。

では、「銃の所持」はどうだ?

銃を持っている事自体は直接他者への危害に繋がらない。

決して銃口を人に向けることなく、あくまで「狩猟」や「射撃」といった趣味やスポーツに限定して使用するのであれば、銃を所持する事は個人の自由と考える人はいる。

だが、銃を持っていれば他者への危害は確実に容易になる。



この問題に真っ向から取り組んだのがマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォア・コロンバイン」である。

コロンバイン高校で二人の生徒が銃を乱射し多くの死傷者を出した事件を取り上げ、「二度とこのような事件を起こさないためには、誰もが簡単に銃を入手できる現制度を見直すべきだ」と主張している。

銃の所持を規制すれば、高校生がイジメの仕返しに学校で銃を乱射したくなっても実質的に不可能だ、という理屈だ。

この「コロンバイン高校銃乱射事件」はアメリカ社会に衝撃を与え、その原因について様々な議論を呼び起こした。

加害者たちがゲイだとからかわれてイジメを受けていたというエピソードはマイノリティ差別問題にも抵触していたし、また彼らが日頃から銃で敵を射ちまくるTVゲームに興じていた事から「暴力的なゲームを規制せよ」という声も少なからずあった。

この「ゲーム規制」論に対して、マイケル・ムーアは作品の中で「TVゲームが彼らを犯罪に駆り立てたと言うのなら、ゲームの大本山である日本で銃乱射事件がないのは何故か? それは日本では銃が規制されているからだ」と反論している。



私はマイケル・ムーアが結構好きなのだが、この問題に関しては彼と意見を異にする。

「銃がたやすく手に入るから銃乱射事件などという悲劇が起きるんだ。手段を失くしてしまえば犯罪は減るに違いない」という論法も、「銃乱射を愉しむような暴力的なゲームが子供たちを犯罪に走らせるんだ。ゲームを規制しよう」という論法も、私に言わせれば「同じ穴の狢」であり、ともに表面的な解決案に過ぎないと思うからだ。

銃を取り上げたら、確かに銃乱射事件はなくなるだろう。

だが、加害者たちを犯罪に駆り立てたイジメや差別が続く限り彼らは鬱屈を溜め続け、人を恨み学校を憎みながら生き続ける事になる。

おそらく銃乱射ではなく別の方法で鬱憤を晴らそうとするだろう。

手作り爆弾を仕掛けるとか、刃物を振り回すとか、手段なんていくらでもある。

「ゲーム規制」も同様に、彼らの苦しみや追い詰められた気持ちを何も解決しない。

子供たちが人畜無害なマリオブラザーズで遊んでたって、学校にイジメや差別やスクールカーストがある限り、彼らは傷つき怒り苦しみ続けるのだ。

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