三島由紀夫は自伝的小説「仮面の告白」の中で、初めての射精のオカズが「聖セバスチャンの殉教」を描いた宗教画であったと書いている。
上半身裸で木に縛りつけられ矢に貫かれた美青年の苦悶の姿が、幼い彼の同性愛的嗜好とマゾヒズム的嗜好を強烈に刺激したらしい。
このエピソードで思い起こすのは、私が小学生の頃に衝撃を受けた「聖テレジアの法悦」という彫像だ。
天使の槍で貫かれ身をよじらせて恍惚の表情を浮かべる聖女の姿は、宗教の荘厳さよりもむしろ世俗的でエロティックな刺激を私の脳にぶち込んできた。
宗教的テーマの美術品に性的興奮を覚える後ろめたさもまた、ますますそのエロさに拍車をかけたような気がする。
親に隠れてこっそり読むエロ漫画と同様の背徳感とワクワク感がたまらなかった。
私に美術全集を買い与えた母親は、幼い娘が「聖テレジアの殉教」の彫像から性的シグナルを受け取っているとは夢にも思わなかっただろう。
でも、エロってそんなもんだよな。
少年漫画のエロ描写が子供の教育に悪いと目くじら立てる人々は、幼い頃にこういう体験をしたことがないのかもしれない。
彼ら彼女らもまた美術の教科書やら何やらで「聖セバスチャンの殉教」や「聖テレジアの法悦」などの作品を目にしているはずだ。
だが、何も感じなかった。
それはおそらく健全な精神なのだろうが、ある意味、感受性の鈍さとも言えよう。
でも、鈍いことは必ずしも悪いことではない。
むしろ、鈍い人たちは幸福なのかもしれないのだ。
フランスのシリアルキラーであるミシェル・フルニレの凶悪な性犯罪を考える時、「彼の性的感受性が鈍かったらこんな事にはならなかったろうに」と思わずにいられない。
フルニレは1987年から2003年の間に12歳から21歳までの女性7人をレイプし殺害した。
被害者の多くが未成年者であったため、彼は小児性愛者だと考えられているが、私は彼をペドフィリアと見做していない。
彼は幼い少女が好きだったのではなく、「処女」が好きだったのだ。
とにかくもう偏執的に「処女」という概念に取り憑かれていた。
だが当然、成人女性には処女が少ない。
そのため、対象者の年齢がどんどん下がっていったのである。
こういうのは小児性愛者と言えないと思う。
処女であれば成人女性でも全然OKだったのだから。
フルニレが「処女」に取り憑かれたのは、12歳の頃だという。
自転車に乗っていた時、聖母マリアの処女懐妊の妄想が浮かんで、そのまま倒れて気絶したそうだ。
気絶した原因はわからないが、たぶん高潔な処女マリアを穢して孕ませるという聖俗一体エロス妄想が彼の脳内で強烈にスパークし、自転車に乗ったままエクスタシーに達したのだろうと思われる。
聖なる法悦と性的快感の合体。
小学生の私が聖テレジアの姿態に淫らなものを感じ取ったように、幼き三島由紀夫が聖セバスチャンの苦悶に性的興奮を覚えたように、フルニレもまた聖母マリアの処女懐妊という概念に生々しくエロティックな刺激を受け取ってしまったのだろう。
彼は3回結婚したが、妻たちは3人とも処女ではなかった。
それが人生最大の痛恨事である、と、彼自身が述べている。
そこで彼は「処女狩り」を始めるのである。
鹿やウサギを狩るように目をつけた処女を追跡し、車に拉致してレイプし殺す。
処女マリアが神に犯されて懐妊したのなら、処女を犯す彼もまた「神」に並ぶ者となる。
手つかずの無垢の肉体を刺し貫く時、彼は支配者としての万能感に酔いしれたであろう。
逆に言えば、処女しか彼を支配者にさせてくれなかったのだ。
女に対する根深い劣等感とルサンチマンが、彼の「処女フェチ」の核であるとも考えられる。