女王様のご生還 VOL.136 中村うさぎ

「うさぎ図書館」で夏目漱石の「こころ」について触れたので、ここで少し補足をしておきたいと思う。

「こころ」に登場する「先生の妻(婚前は「お嬢さん」と呼ばれている女性)」についてだ。



二人の男に心を寄せられながら、それを知ってか知らずか、どちらにも気があるような素振りを見せて彼らを翻弄する女性……彼女がいなければ先生もKも自殺することはなかったようにも思われ、悲劇の元凶はこの女だったんじゃないか、という印象すら与える。

はたして彼女は二人の男を手玉に取る「悪女」だったのか、それとも、気があるように見えたのは男たちの錯覚でただただ無邪気で無垢な「純白の女」だったのか?

これについてネットで議論している人々を見かけたが、私に言わせれば、この女は漱石がずっとテーマとしてきた「無意識の偽善者」の典型として描かれている。



「無意識の偽善者」とは、漱石の「三四郎」に登場する美禰子を指した呼称である。

美禰子もまた、二人の男の好意に気づきつつも自分の気持ちを明確にしないまま、気持ちを口にできない三四郎よりぐいぐいとプロポーズしてきた男の妻となる。

「こころ」のお嬢さんとそっくりである。

そして美禰子は、その結婚式の場で自分のことを「ストレイ・シープ(迷える子羊)」と呼ぶ。

私自身、自分の気持ちがわからないのよ、どっちが好きかなんて決められなかった、私はずっとこうやって迷いながら流されて生きていく女なの、という言い訳なんだか懺悔なんだか、よくわからない独り言だ。

そんな彼女を漱石は「無意識の偽善者」と名付ける。

二人の男を手玉に取ってやろうなどという悪意があるわけではないが、本人も自覚しないまま相手に合わせて媚びるような態度を取り、結果的に男たちを苦しめる女だ。



だがまあ、少なくとも美禰子には、そんな己を責めるだけの客観性があった。

だが、「こころ」に登場する「お嬢さん」はもっと無自覚である。

傍目には彼女が先生とKの好意に気づいていて、あえて二人を翻弄するような言動をしているように見えるが、おそらく彼女自身にそんなつもりはない。

ただ下宿人である二人に対して公平に愛想よく振る舞っていただけだ、と本人は思っているだろう。

どちらも同じくらい好きだったし、どちらを選ぶかなんて言われてもわからないわ、最終的にはプロポーズしてきた方を選んだだけ、だってKさんは私に告ったりしなかったもの、私にわかるはずがないじゃない?と。



うんうん、そのとおりだね。

三四郎も美禰子にプロポーズしなかった。

だから美禰子は、自分にプロポーズした男に応えただけだ。

美禰子もお嬢さんも悪くない。

男たちが勝手に恋をして、勝手に女の一挙一動を恋愛的に解釈し、勝手に惑わされて勝手に自滅した……それだけのことである。



だが、漱石はその「無自覚さ」に邪悪なものを感じていた。

いや、その「無自覚さ」ではない、その「受動的な態度」に、だ。

自分の意思で選ばず、男たちが自分を選ぶように仕向け、その結果、何の罪も責任も己の身に負わない無垢なる邪悪さ。

男たちは、その純白の「無垢」を愛し守ろうとする。

だが、それははたして、男たちが命懸けで守るほど「善」なるものなのか?

むしろ「悪」ではないのか?



はっきり言って漱石は「女嫌い」だ。

だが、それは決して「強い女」に向けられる嫌悪ではない。

むしろ、弱いふりをして責任を取らない女の狡さに、その嫌悪は向けられる。

私が思うに、それは「同族嫌悪」に近いものではなかったか。

恋愛とは違うが、漱石もまた若い男たちに慕われ彼らを翻弄できる立場にあった。

彼は流行作家であり文壇の大御所であり、芥川龍之介など複数の門下生に囲まれていた。

門下生たちはさぞ漱石の寵愛を欲したことだろう。

漱石の一挙一動を気に病み、門下生同士でライバル意識を燃やし、嫉妬したり出し抜こうとしたりしたことだろう。

漱石はそんな自分の立場を、美禰子やお嬢さんに投影していたのではないか。



漱石の著作の中でもっとも活き活きと描かれている女は、「虞美人草」のヒロイン・藤尾である。

漱石は彼女を、きわめて意識的かつ自覚的な翻弄者として描いている。

男を誘惑し、その恋心や野心を利用して競わせる、驕慢な女だ。

彼女はその燃え盛る己の業火のために身を滅ぼす。

支配しているとばかり思っていた男が自分にたてついた……その激しい怒りに脳卒中を起こして死ぬのである。

その死に様もいかにも彼女らしく、絢爛豪華な文体と相俟って非常に劇的だ。

悪女として描かれているのに、本当に嫌な女なのに、漱石の描いた女たちの中で群を抜いて魅力的なのだ。

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