今日も怪獣日和 第10回「さらば東急文化会館」

成長の記憶に絡みついた、微妙なる特撮&アニメの想い出

 東京・渋谷の東急文化会館が2003年6月末で閉館となってしまった。老朽化のため、取り壊しになるのだという。

 広い東京の中でも、ここは個人的な想い出が特に多く詰まったシンボリックな場所だったので、いささか寂しいものがある。閉館イベントにも参加し損なってしまい、とても残念に思っているところだ。

 小学校時代、筆者は東中野に住んでいた。60年代末期、小学高学年になったあたりで仲間うちに秘密サークルみたいなものができた。目的はただ単に渋谷に出て、東急文化会館の最上階にあったプラネタリウムを定期的に見るということだけ。しかし、当時の小学生にとって、国電の切符を自分で買って代々木で乗り換えて、たかだか5駅を移動することは、けっこうな勇気がいる。それを大人の介在なしに自分たちだけで敢行し、星座の観察という大人びた行為をするという部分にドキドキ感を感じていたのだった。

 サークル名は「W」。これの由来が何とも恥ずかしい。プラネタリウムの椅子は、丸天井となった上方が見やすいよう背もたれがスライドする。まるでサンダーバード2号みたいだから、秘密コードは「2」にしようと。そして、単にそれだけだと間抜けなので、英語に置き換えて「W」としたのだ。ちょうど当時、虫プロの『わんぱく探偵団』が放映中でもあり、そこに登場する「Vサイン」が2つで「W」ということとかけてある。

 私が考えたわけじゃないが、こういうことに懲りたくなるようなお年頃だった。第二次性徴にさしかかる時期で、性教育ブームが起きる直前くらいのことだ。卑猥と呼ぶには幼すぎるエッチ話も、メンバー間ではよく出た。なにかと恥ずかしい記憶まみれで、こういう機会でもないと深く沈めておきたい時期だ。

 『サンダーバード』と『わんぱく探偵団』という選択が、何かと背伸びしたい時期にフィットしていている。ことに今ではほとんど顧みられない『わんぱく探偵団』は、「ハイセンスなテレビまんが」として仲間内に人気があった。江戸川乱歩の原作の古めかしさをモダンに上等にアップデートしてあることは、小学生にでも伝わる。大人がちゃんと考えている雰囲気が大好きだった。

 小林少年の着ている服ひとつ取ってもVマークのシャツにブルゾンと、当時の児童でこんなオシャレは考えられないようなコーディネーション。拳銃っぽいものでガンアクションするが、これはBDバッジをセットして撃ち出すので殺傷能力はない。車に乗れるメンバーはクリーニング屋の見習いだから……などなど、「おかしい」と突っ込まれそうな部分にいちいちウラを取っている雰囲気が全体に漂っていて、好感度が高かった。特に黒と白のツートーンでまとめられた怪人二十面相のデザインが格好良く、全面降伏である。若山弦蔵の声に渋いテーマ曲と、悪の美学が横溢し、勧善懲悪とは一線を画した空気が感じられ、そこにもシビる。山下毅雄作曲の「怪人二十面相はうたう」は、最近「朝日ソノラマ主題歌コレクション4」で復刻されて嬉しい。

 結局、りんたろう監督や出崎統監督に代表されるいわゆる「虫プロらしさ」というテイストは、自分にとってこの作品が原点となった。それにしてはアニメ誌も無視だし、DVD復刻もされず、懐かしテレビ番組でも流れることはなく、もどかしい限りだ(編注:その後DVDが発売され、現在ではベストフィールドより入手可能)。

 さて、東急文化会館の話に戻る。ティーンと呼ばれる時代もそろそろ終わりかけ、本格的に大人になろうという70年代の後半にも、この場所と密着した第二の想い出が残っている。それは、この夏の暑い季節になると、ふとよみがえってくる記憶でもある……。

 1977年に『宇宙戦艦ヤマト』が映画化されるというので、ファンクラブのみんなとオフィスアカデミー(当時)と協調して盛り上げようと宣伝活動を必死でやっていたころ。ちょうどこの東急文化会館の一階をよく待ち合わせ場所として使っていた。その時期、横浜に引っ越してすでに数年が過ぎていたので、渋谷は東横線によって神奈川と東京の接する場所という認識だった。

 なぜ文化会館の一階だったのか。そのパンテオン横の通路は、モニターを5~6台並べ、ビデオ再生で映画の予告編を常時流す空間となっていたからである。これは当時としては、かなり画期的なことだった。家庭用ビデオデッキは25万円、録画用120分テープ1本4000円という時代。ビデオソフトは一般向けに市販すらされていないから、フィルムから落としたビデオテープがあって、エンドレスで再生されているということ自体に、大きな驚きが宿っているのである。

 この手の趣味の人びとは、往々にして時間にルーズな場合が多い。「○○時間」と呼んでズレを表現したりするくらいだが、そこなら遅れても退屈はしないというわけ。実際、『宇宙戦艦ヤマト』の劇場版の公開が近づくと、そこで毎日毎日待ち合わせをして、繰り返し繰り返し、最低50回くらいは予告を観たと思う。結局、その予告編の印象と醸成された期待感の方が本編よりも上回ってしまったくらいだ。試写会で本編を観たときの落胆ぶりは、思い出すのも嫌だったりする。

 もっとはっきり言えば、予告編の方がよくできていた。非常にテンポ良く名場面がパッキングされているし、戦闘シーンも凝縮されていて盛り上がる。さらに何度も観ていると、いかに手の込んだことをやっているか、新発見があるのも重要ポイントだ。ヤマトが土くれの中から浮上してくるとき、普通ならリピート作画の土にヤマト本体はスライドという処理にしてしまいそうなのに、艦首近くで一枚はね上がって転げて演技する岩があったりするのは、この予告の反復視聴の中で改めて気づいたことだった。

 そんな東急文化会館ビデオモニタ前待ち合わせはしばらく続く。翌年の1978年になると『スター・ウォーズ』と『さらば宇宙戦艦ヤマト』の予告を反復するようになり、ますます重宝するようになっていた。そして『スター・ウォーズ』も予告編の衝撃を本編が上回ることはなかった。結局あの時期のSF映画ブームの筆者なりの心象は、何のことはない「東急文化会館の一階」で形成されたものだったわけだ。

 他にも劇場周囲に並んだ記憶や映画祭、試写会の想い出もあるが、東急文化会館の二つの体験は各々成長期の変わり目であったこともあり、特に忘れ難い。

 そんな特別な場所であればこそ、1999年公開の『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』で東急文化会館前のバス乗り場付近上空からガメラが落下し、大惨事を起こしたときの、こちらの心臓の潰れ具合は、人一倍大きかった。そんな東急文化会館が取り壊されてしまえば、あの映像の持つ衝撃もまた隔絶されたものになってしまうのだろうか。

 非常に残念ではあるが、怪獣映像が永遠の記録に留めてくれたことを感謝しつつ……。

 GOOD BY 東急文化会館。

追記:その後、『ガメラ3』の東急文化会館ミニチュアセットとは2012年の「特撮博物館」で再会することになる。現在でも保全されているはずだ。怪獣映画がこうした「都市の記憶」を保持するものであることを、もっと伝えていきたいものである。

  東急文化会館の跡地は現在ではヒカリエになっているが、残念ながら映画館は復活しなかった。

【2003年7月10日脱稿】初出:「宇宙船」(朝日ソノラマ)