女王様のご生還 VOL.20 中村うさぎ

先日の夕刻、母の携帯から電話が掛かってきた。

その日は前日から父が上京していたので、認知症の母が例によって「お父さんが帰って来ない!」と心配して電話してきたのだと思った。

そもそも認知症の母をひとりで大阪の家に置いて来ること自体、あまり感心しないのであるが、何故か父は楽観的で「一泊くらいなら大丈夫だよ」などと言って家を空ける。

が、全然大丈夫ではないのである。

母は父がいないと動揺して、私や近所の奥さんに電話を掛けまくるのだ。

電話口で説明して宥めると少し落ち着くのだが、しばらくするとまた忘れてしまって、何度も「お父さんがいない」と電話を掛けてくる。



で、今回もまたその電話だと思ってたら、意外にも電話の声は男性であった。

「もしもし、こちら吹田警察署ですが」

「警察?」

「中村素子さんのお嬢さんですか?」

「はい」

「じつはお母さんが道に迷って、うちで保護してるんですが」



その瞬間、胸に浮かんだのは「ああ、ついに来たか」という感慨であった。

この日が来るのは予想していた。

父が留守にしている間に母が徘徊し、警察に保護されるのは目に見えていたのだ。

だから「お母さんを置いて家を留守にするのは良くないよ」と言ってたのに。



「お嬢さん、今どちらですか?」

「東京です」

「ああ、東京……それは……ちょっと迎えに来れませんね」

「すみません。ちょっと無理ですね」

「どうしようかなぁ」

「あの、母の住所を言いますので、お手数ですが家まで送り届けていただけませんか?」

「いや、それは……うーん……我々としても、こういう状態のお母さんを家にひとりで置いて帰るわけにもいきませんし。どなたかに一緒にいてあげて欲しいんですが」

「そうですか……」

「どなたか、お迎えに来れる方はいらっしゃいませんか? ご親戚とか」

「はぁ、生憎、父も今日は東京に来ているので」

「え、ご主人がいらっしゃるんですか?」



電話の向こうで、警官が驚いたように声を張り上げた。

どうやら母は、自分が夫と暮らしていることを忘れているらしい。

てっきり「お父さんがいない」と騒いでるのかと思っていたので、これは少し意外だった。

父は携帯を持ってないため、こういう時に連絡がつかない。

だから娘の私に警察が連絡してきたのかと思っていたのだ。



確かに母は、毎日一緒に暮らしている自分の夫を、時々忘れる。

父がテレビを観ていると、不思議そうな顔で「あなた、どうしてうちにいるの?」と尋ねたりするらしい。

「俺はおまえの夫じゃないか」と答えると、「あなたと結婚した覚えはない」と答えるそうだ。

一度などは「あなたと結婚していない」と言い張るので住民票まで見せたところ、「確かに私は中村勝信という人と結婚したけど、それはあなたじゃない」と答えたという。

結婚した記憶はあるが、目の前の男が自分の夫だと認識できないのだ。



しかし今回は、警察で夫の名前も口にせず、「ご家族は?」と訊かれて私の名前を言ったようである。

日常的に顔を突き合わせている夫のことを忘れるのに、たまにしか会わない娘のことは憶えている、というのは不思議な現象だ。

やはり彼女にとって夫はあくまで他人であり、子どもは血の繋がった家族という感覚なのだろうか。

自分の身体から出てきた子どもは特別な存在なのかなぁ、などと、出産経験のない私はぼんやりと感心するばかりだ。

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