女王様のご生還 VOL.206 中村うさぎ

ずっと以前、まだ私が病気になる前のことだが、NHKのなんとかいう番組(名前忘れた)に出演して、「自分の考えた番組企画を発表せよ」というお題を出された。

私が提案したのは「障害者ラブワゴン」というものだ。

当時「ラブワゴン」というリアリティ番組があって、男女6人ほどがひとつのワゴンに乗って旅をする、という内容だった。

私は常々、そこで描かれる男女の恋愛模様に非常に偽善的で気持ち悪いものを感じていたので、「ラブワゴンは五体満足な男女しか乗せないけど、私はあのワゴンのメンバーに障害者も混ざって欲しい。他の男女と同様、障害者も一般公募で選び、カメラの前で健常者の男女がどんな風に障害者に接するのかを観たいのです」と提案したわけである。

障害者が山に登りたいと言えば、きっと健常者の男女は笑顔で車椅子を山頂まで運ぶだろう。

何しろカメラの前だから、嫌な顔なんかするわけがない。

みんなでエッサホイサと車椅子を山頂に運び、朝日を浴びて微笑み合う。

そんな心温まる感動エピソードをいくつも連ねた果てに、その障害者は恋をして相手に告白することになる、と仮定してみよう。

さて、告白された相手は無下に断れるだろうか?



恋愛感情がなければ断るのが普通だが、こと相手が障害者の場合、断ったら自分が悪者になるような気がしてめちゃくちゃ困惑するんじゃないだろうか?

もしかすると「障害者差別だ」なんてネットで叩かれるかもしれないし。

でも、そこで躊躇する事自体が「差別」なのだ。

相手が五体満足なら平気で断れるのに障害者だと断りにくいという気持ちが既に相手に対して平等ではない。

障害者だろうと何だろうと、タイプじゃないものはタイプじゃないんだから、普通に断っていいはずなのだ。

現にカメラがなければ、絶対に「ごめんなさい」と断るだろう。

でも、カメラの前だと彼ら彼女らはどう反応するのだろうか?

それまでいかにも「私たちは差別なんかしないし、あなたを平等に扱いますよ」というポーーズをし続けていた彼ら彼女らがどんな顔をするのか、私はそれが観たかったのだ。



打ち合わせの席でその企画を私が発表した時、ひとりの出演者が「そんな障害者を見世物にするような番組はよくない」と反対した。

「なんで見世物なんですか? 障害者の出演者は他の人と同様に自らの意志で応募してきた人だし、何も無理やり引っ張り出してるわけじゃないんですよ。それに年頃の男女が何日も一緒に旅していれば、普通の人と同じように障害者だって好きな人ができたりするのは当然じゃないですか。べつに無理やり恋をしろとか告れとか強制するわけじゃないんですよ?」と反論したが、その人はどうにも不快そうだった。

そう、「不快」なのだよ。

障害者が傷ついたり恥をかいたりするのを見たくない。

まぁ、それはわかる。

私だって障害者をわざわざ傷つけたり恥をかかせたりするような番組はクソだと思うさ。

でも、「ラブワゴン」の健常者たちは日常的に恋をして告ってフラレてカメラの前で傷ついたり恥をかいたりしてるんだから、障害者が普通の人と同じように恋して告白して失恋するのは何も特別な事じゃないでしょ?

なのに健常者の失恋は観てられるけど障害者の失恋は観るにしのびない、というのは立派な差別ではありませんか。



このように、やれ差別だの子供の教育に悪いだのと言って自粛を求める人たちは、「本当の平等とは何か」とか「本当の教育とは何か」という根本的な議論を抜きにして、単に自分の不快を正義にすり替えている場合が多い。

現にこの番組の放映後、障害者の熊谷晋一郎氏から「NHKのあの番組、観ましたよ。僕も障害者ラブワゴンに応募したいと思いました」と言われた。

すべての障害者が熊谷氏と同意見とは思わないが、中には彼のように面白がってくれる人もいるのだ。

なのに「公共の電波で障害者を見世物にして恥をかかせるなんて!」という義憤は、私の目には健常者の驕りにしか映らない。

要するに、あなたたちは「観たくない」だけでしょ?

障害者の立場に立ってるわけでも何でもない。

そういう健常者の驕りが、かつてミゼットプロレスをTVから駆逐し、それを生活の糧にしていた多くの障害者たちを失業に追い込んだのだ。

障害者の味方のふりをして障害者を追い詰めてたら世話ないよ。

いい加減に自分の偽善に気づいて欲しいな、まったく。



私の発言はしばしば「過激」とか「差別的」とか評されるが、なんのなんの、そっちのほうがよっぽど差別的ですよ。

障害者も女性も同性愛者も確かに不当な蔑視や差別を受けてきたが、だからって神棚に祀り上げてチヤホヤすりゃ「平等」ってもんじゃない。

ましてや「触らぬ神に祟りなし」とばかりに腫物扱いなんて失礼ではないか。

ちゃんと普通の人間として扱えよ、と、私は思う。

だが、「差別」と言われることを恐れてメディアはどんどん自粛し、腫物扱いはエスカレートする一方だ。

差別のない社会を目指したおかげで「わかりやすい差別」は確かになくなったが、一周して欺瞞と独善に満ちた「被差別者に優しい(と自分で思ってる)差別」という現象が幅を利かせている。

それを推進しているのが、先に述べたような「差別を糾弾する差別者たち」なのである。

なんとも皮肉な話ではないか。

記事の新規購入は2023/03をもって終了しました