女王様のご生還 VOL.195 中村うさぎ

「表現の自由」と「言論の自由」は守られるべきである、というのが私の基本的な主張である。

すなわち、エロやグロなど他人を不快にするような表現物も子供の教育に悪いとされるような作品も、それを創って発表するのは作家の自由であり、またそれらの作品を批判するのも鑑賞者の自由なのだ。

当然、好き嫌いの激しく分かれる作品には賛否両論が飛び交うが、それでこそ健全な批評の形であろうと私は思う。



表現するのも批判するのも個人の自由であり、批判の声が大きいからといって安易に行政が規制をかけたりといった法的干渉をすべきではない。

と、このようなスタンスから私は「表現規制」に反対する者であるが、そんな私がもっとも厄介に感じるのは、行政からの規制よりも民間の「自主規制」だ。

「自主規制」というのは文字どおり「自主」であるから、法的拘束力があるわけではない。

なのに「自主規制」は、まるで天下の法であるかのような態度で言論や表現を規制するのだ。

しかも、この「自主規制」で禁じられている言葉や画像の根拠を尋ねても、誰ひとりとしてまともな返答ができないのである。

「それは……ダメだからダメなんだよ」みたいな返答で、まったく答になってない。

要するに、誰も理由がわからないまま、ただただ闇雲に禁止しているのだ。



そして、このような意味不明の言葉狩りはどんどん範囲を拡張していき、しまいには「えっ」と驚くような言葉にまで校閲からチェックが入る。

たとえば昔、「片手落ち」という言葉を使ったら、校閲からダメ出しをくらった。

理由は「片手のない人に失礼だから」だそうだ。

いやね、確かに「片手落ち」という言葉は「物事を処理するにあたって片方が抜け落ちている不備な状態」という意味で、片手がないのは不備だと言わんばかり(っていうか、言ってるし)だから「片手のない人に失礼」なのかもしれない。

だが、病気のせいで左手が不自由になった私に言わせていただければ、片手が機能しないのってめっちゃ不便だし、これはどう考えても「望ましくない状態」であり要するに「不備」ですよ。

自分の片手が機能しないのを「十全な状態」だなんて言い張る気はないね、私。

現にこうやってキーボード打つのもひと苦労だし、物がちゃんと掴めないのでよく落として危ないし、両手が自在に使える健常者に比べると圧倒的に不備で不便で効率悪いっすよ。

それを「やーい、こんな事もできないの? だっせー!」などとバカにされたらそりゃ悲しいけど、「片手落ち」という言葉にそういった揶揄が含まれているとは思わないので、読んでる本にその言葉が出てきてもいちいち傷つかない。

「ああ、物事の片方が抜け落ちてる状態を片手が欠落している状態に例えてるんだな」って、ちゃんとわかるっちゅーの。

それを変な気の回し方して「この言葉、片手のない人に失礼なんじゃ?」なんてぇ腫れ物に触るような心配されるほうが失礼な気がするわ(苦笑)。



だが実際、「片手落ち」は放送禁止用語だし、書籍でもNGワードとして使用を禁止されている。

そして、これら「放送禁止用語」「NGワード」は法的規制でも何でもなく、すべて放送局や出版社が勝手に決めた「自主規制」なのだ。

何の法的拘束力もないくせに、TVで「マンコ」という言葉を発したら慌ててブザー音がかぶせられ、まるで重大な犯罪でもやらかしたかのように大騒ぎされる。

しかも「マンコ」はダメだけど「チンコ」は大目に見る、などという意味不明な、それこそ「片手落ち」の自主規制だ。

なんで「チンコ」はいいのに「マンコ」はダメなの?

マンコってそんなに恥ずべき存在なの?

それって逆に「女性蔑視」に繋がるんじゃないの?

と、このように某放送局の人に詰め寄ったら、「いやまぁ、マンコは隠語ですからね」と言われた。

それならチンコも隠語だろ、とツッコミ入れたら「あはは」と笑ってましたよ。

答えられないからって笑ってごまかすなーー!



そもそも「言葉狩り」には意味があるのだろうか?

「片手落ち」や「つんぼ桟敷」や「めくらめっぽう」などという言葉をこの世から一掃したら、障害者に対する差別感情は消えてなくなるのか?

視覚障害者を「めくら」と呼ばなくなっても、彼らが仕事や教育の場で侮蔑や嘲笑の対象になっていれば、事態は何も変わらないではないか。

逆に言えば、視覚障害者を「めくら」と呼ぼうとも、その言葉が揶揄を含んでなければただの呼称に過ぎない。

そんなの小学生でもわかる理屈じゃないか……って、この言い方、小学生に対する差別ですかね(笑)。

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