女王様のご生還 VOL.247 中村うさぎ

Me tooは蹂躙された人間が立ち上がり抵抗するレジスタンス運動だ。

にもかかわらず、Me too運動についての私のスタンスは、否定的ではないが全面肯定でもないという甚だ曖昧なものである。

セクハラという概念が存在しなかった80年代に20代を過ごした私にとって当時の屈辱的な体験は未だに忘れられず、そういう意味では女たちが声を上げる事には大いに賛成だ。

Me too運動の発端となったのは映画界の大物バーンスタインに対して告訴に踏み切った女性たちだが、この人たちの勇気には心から敬服する。

当時、バーンスタインの味方をしたマスコミや関係者からの容赦ない誹謗中傷を浴びた彼女たちは、さぞかし傷ついた事だろう。

この種の「セカンドレイプ」がある限り、女たちは全世界を敵に回すほどの覚悟なしには自分の被害を訴えられない。

彼女たちが先陣を切り、傷だらけになりながらも戦ったおかげで、後続の女たちは奮い立てたのだ。

とはいえ、その一方で、Me too運動の支持者が増えて世論が「セクハラ男を訴えろ!」的なムードになってから以降の訴えの中には、尻馬に乗った個人的な意趣返しや金銭目当てのものも少なからず含まれているような気がして、そのへんがどうにも嫌な感じがする。

私がMe tooに対して全面肯定のスタンスを取れないのは、そこなのである。



しかも、どれが本物の訴えでどれが虚偽なのかは、なかなか判断が難しい。

セクハラやレイプは密室で起きる事なので証拠が残りにくいし、加害者側と被害者側の解釈の違いなども一筋縄ではいかない問題だからだ。

中には「どうして何年も経った今頃、そんな昔の話を持ち出すのか。被害を受けた直後に訴えればいいのに、そうしなかったのは自分にも非があるからじゃないのか」などと言って虚偽だと決めつける者もいる。

だが、この批判に対しては、私は被害者の肩を持ちたい。

何故なら、性的被害というのは当事者が激しく混乱して、記憶や感情を言語化するのに時間がかかったりするものだからだ。

PTSDのような症状が出るようになって初めて、自分がどれだけ傷ついていたのかに気づく事もある。

レイプやセクハラは相手の尊厳を甚だしく傷つけるものだが、尊厳を奪われた人間というのは自分の屈辱感や無力感をうまく処理できず、言葉で説明する事はおろか自分自身に何が起きたのかも明確に把握しづらいのだ。



これは何も性的被害だけではない。

たとえば精神的虐待やモラハラなども、相手の所業によって自分に何が起きたのか、自分は何を奪われたのか、という被害の実像をはっきりと言語化できるまでに時間がかかる。

それまでは心が乱れてバラバラになっているし、自分を責めたりもして鬱状態になり、立ち上がって真っ向から戦うなんて気にはなれない。

立ち直るまでに要する時間も人それぞれなので、何年か、あるいは何十年もかかる者だっているのである。

それを「もっと早く言えばいいのに」などとなじるのは、他人の気持ちに対する想像力に著しく欠けた態度であろう。

自分だって、いざそんな目に遭えば激しく動揺するはずなのだ。

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