女王様のご生還 VOL.157 中村うさぎ

我々は猿の顔を見分けられない。

どの猿も同じ顔に見えてしまう。

だが生後6か月くらいまでの乳児の脳は、猿の顔の個体識別がちゃんとできるのだという。

でも猿の顔が見分けられる能力なんて実生活には必要ないので、その能力は衰えていき、9か月頃にはなくなってしまうのだそうな。



同様に言語の聞き取り能力においても、6か月までの乳児は英語だろうと中国語だろうとロシア語だろうと、その発音の違いがわかるらしい。

我々日本人はLとRの発音の識別が苦手だが、赤ん坊の時には違いがわかっていたのである。

ただその違いを聞き分ける能力は日本語を喋るためには不必要なので、生後9か月までに消えてしまう。

つまり6か月から9か月の間の赤ん坊の脳は、自分にとって何が必要で何が不必要なのかを模索しているのである。

そして、要らないものを捨てていく。

我々は人生の過程において、どれだけのものを獲得すると同時に、どれだけのものを失っているのだろうか。



無自覚に失ってしまったものもあれば、意識して捨てたものもあるだろう。

私はできるだけナルシシズムから距離を置きたくて、まずはもっとも邪魔になる「万能感」を手放そうと頑張った。

何故なら私はすぐ調子に乗るからである。

調子に乗って、そして思いっきり鼻っ柱を折られる。

そんな「ぎゃふん感」を何度となく味わったので、極力、調子に乗らないように気をつけることにした。

そんな私を「自己評価が低いんですね」なんて言う人もいるが、そもそも正確な自己評価なんか持ってる人などいないと思うので、自己評価が高すぎてぎゃふんな人生を送るくらいなら最初からやや低めに見積もっておき、たまたまうまくいったり褒められたりしたら「これはあくまでラッキーなんだ」と考えた方が、私の場合はちょうどいいように思う。



だから私は、褒められるのがあまり好きではない。

もちろん褒められれば人並に嬉しいのだが、その後で「調子に乗るなよ!」と自分に言い聞かせなくてはならないので、その作業が面倒なのだ。

それに世の中の人って、心にもないお世辞を平気で言うじゃん?

いちいち真に受けてたら、私はどこまで己惚れるかわからないよ。



と、このように、自分が人より優れていると己惚れるくらいなら人より劣っていると自己卑下したほうが生きやすいと考えた私であるが、もちろんその選択にも歓迎できない副産物は生じる。

私はたぶん人一倍僻みっぽい性格なのだが、この僻みっぽさはきっと私が自ら身につけた自己卑下癖のせいだろう。

「どうせ私なんか何の価値もないし」とすぐイジけてしまう。

鬱になるとその傾向はよりいっそう強まり、もう生きているのが嫌で嫌で仕方ない。



じゃあみんなに私の価値を保証してもらえば生きていく気になるのかというと、まったくそういうわけではない。

これは「他者と私」の問題ではなく、完全に私だけの問題なのだ。

私がひとりで勝手に自分の中の「脳内他者」と戦っている。

そんな他者が実在しようがしまいが、そんなことは関係ないのである。

すべて私の妄想なのだから。

そして、この妄想こそが私にとっては現実よりも生々しいリアリティを持つのだ。



私だけではなく、おそらくすべての人間が、それぞれ自分の脳内世界で生きているのだと思う。

我々が現実だと思っているこの世界は、我々の脳内で検閲され再解釈され書き直された「物語」の世界なのである。

そして、その「物語」の作り方に、それぞれの個性が表れる。

私のようにやたら僻みっぽい人間はネガティヴな物語を作るので、私の生きている現実において常に私は満たされない。

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