女王様のご生還 VOL.220 中村うさぎ

実家の父親から電話が来て「お母さんはもう長くないぞ」と言われたので、とりあえず大阪に帰省した。

どうせ会っても私が誰だかわからないだろうし、死ぬ前にひと目会いたいという気持ちも特にない相変わらず親不孝な私であったが、実際に本人を目の前にして予想以上の変貌に驚いた。



顔を見た途端、真っ先に頭に浮かんだのは「老いさらばえた」という言葉である。

「さらばえた」の意味は知らないが、とにかく、ものすごくさらばえてた。

まず、面差しが激変している。

痩せて面長になったのもあるが、ぼんやりと生気のない目や締まりのない口元、そして外界へのアクセスをまったくしていないように見える無表情。

以前はボケているとはいえ何らかの感情が窺えたものだが、今や空っぽな器のように何も映し出さないその顔は、もはや「この世の人」ではない。

かといって死んでいるわけではないので「あの世の人」でもないのだが、なんというか、魂が抜けてどこか別の世界に行ってしまった人、といった感じであった。

そうか、もう母はここにはいないのだな。

肉体はここにあるけど、これはただの抜け殻だ。



「ふーむ、これは予想を遥かに超えていた」と、私は「かつて母であった人」の顔を見つめながら感心し、その手をそっと握ってみた。

すると彼女はいきなりにっこりと笑い、「あったか~い、気持ちいい」と嬉しそうに呟くではないか。

あ、喜んでる。

やっぱ生きてるんだ。

私も少し嬉しくなって両手で彼女の手を包み込んでみたのだが、次の瞬間には母の顔から再び表情が消失し、邪険に振り払われてしまった。

なんだよ(苦笑)。



「お母さん、ほら、典子が帰って来たよ」

諭すように父が言っても、下を向いたまま目を合わせようとしない。

「いいよ。どうせ、わかんないよ」

「おまえがそんな坊主頭にしてるからわからないんだよ」

「え、それ関係ないでしょ? ボケてるからわかんないんだよ。髪が長かった頃からもう私を認識できてなかったじゃん」

「そんなことないよ。おまえの頭のせいだ」

私が坊主頭にしたのが不快でたまらない父は頑強に言い張る。

実家に帰って、母の老いさらばえぶりにも驚いたが、それより何より私を不安にさせたのは、この父の振る舞いであった。

しばらく会わないうちに頑固さに磨きがかかり、人の言葉に一切耳を貸さない。

そして、たぶん、ボケかけている。

さっき交わした会話をすぐ忘れ、「言ったじゃん」と言っても「聞いてない」と否定する。

もともと人の話を聞かない男だったが、物忘れが酷くなってますます言葉が通じなくなった。

この調子で二人ともボケてしまったら、もはや私の手には負えないんじゃないか?

想像するだに恐ろしい。



そんな風に考えていたら、父がさらに驚くべき発言をした。

「ところで、俺は今夜ホテルに泊まる」

「えっ!? なんで!?」

「うちにはベッドが2台しかないから、お前の寝る場所はない。だからおまえは今夜、俺のベッドに寝なさい。俺はホテルに泊まるから」

「いや、だって、明日からどうすんのよ? 毎日ホテルに泊まるの?」

「明日はまぁ……なんとかするよ」

「なんとかできるんなら、今夜すればいいじゃん! てか、布団とかないの?」

「あるけど押し入れから出すの大変なんだよ。俺は腰が悪いし」

「…………」

そもそも「帰って来い」と言ったのはそっちなのに、いざ帰省したら「おまえの寝る場所はない」とか、本当に意味がわからないんだが!



愕然としている間にも、父はさっさと荷物をまとめ「じゃあ、お母さんを頼むよ」と出て行ってしまった。

残された私は母を寝室に連れて行って寝かせ、自分は別室の父のベッドに横たわった。

謎過ぎる、父の行動。

これもボケのせいなのか? それとも自分がホテルに泊まりたかったのか?

ああ、そうかもしれない。父は毎日毎日、母の介護をしているのだ。娘も帰って来たことだし、ひとりでゆっくり寝たかったのかもしれない。

でも、それならそうと言ってくれれば……などと考えているうちに、ウトウトしてしまったらしい。

ふと目を覚ますと、いつの間にか母が枕元にいて、じっと私を見降ろしていた。

暗がりの中、ぼさぼさの白髪頭の老女が、幽霊のようにぼうっと立って私を見ている。

そして、目が合うなり、ひとこと。

「あなた、誰?」

「典子です……」

「のりこ? 誰?」

「もういいです」

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