女王様のご生還 VOL.48 中村うさぎ

いつか、この日が来るのはわかってた。

母が私を忘れる日。

彼女の記憶から、人生から、私の存在が消えてしまう日。

でも、それはもっと先だと思ってた。

何の根拠もないけど、もっともっと何年も先の話だと。



「……あなた、誰?」

ついさっきまで激昂して憎々しげに私を罵っていた母が、ふいにきょとんとした表情になって、ぼんやりと私を見つめている。

彼女にとって私はもう娘ではない。

顔も名前も知らない、赤の他人だ。



でも、何故? どうしてこんなに唐突に?

ていうか、いつから私がわからなくなったんだろう?

ほんの数秒前まで母は私に怒り狂い、「あんたが毎日毎日、私の前でタバコをもくもく吸ってるから、私は病気になったのよ!」などと、とんでもない言いがかりをつけていた。

その時は、私は彼女にとって「一緒に暮らしている家族」という認識だったはずだ。

実際のところ、私と母とは一緒には暮らしてないし、そこからすでに記憶の混乱は見られるものの、それでも「家族」という認識があったからこそ「毎日毎日」という言葉が出てきたのではないか。

なのに、こんなに突然、本当にあっという間に、私は彼女の脳内で「見ず知らずの他人」に変身した。

いったい何故? 何のきっかけで?



認知症に「理屈」を求めるのは無駄なのかもしれない。

でも、私は知りたいのだ。

私が何故、彼女にとって、突然「他人」になったのかを。



「お母さん、私は典子だよ。お母さんの娘の」

「典子……?」

母はいぶかしげに目を細める。

「典子? あなた、典子なの?」

どうやら「典子」という名前には聞き覚えがあるらしい。

ということは、目の前の私と「典子」という名の娘が結びつかないのか。



そんなことを考えながら、私は答える。

「そうだよ、典子だよ」

「じゃあ……私には、他に娘がいたかしら?」

「いないよ。私、ひとりっ子だもん」

「私の子どもは、あなたひとりだけ?」

「うん」

「…………」

母は頭を反らし、まじまじと私を見つめた後、

「本当に、あなたは典子?」



典子という名の娘がいたことは憶えている。

だが、目の前にいるこの女は、あの「典子」ではない!

彼女はそう言いたいようだった。



彼女の脳内の「典子」は、どんな娘なんだろう?

もっと優しくて可愛くて素直な娘?

でも私、優しくて可愛くて素直だったことなんか一度もないけどな。

それとも、彼女の中の「典子」は、もっとずっと幼い子どもの私なのか?

あるいは、彼女の中で美化され理想化された架空の娘なのか?



お母さん、あなたの中の「典子」に私は会ってみたい。

私たち母娘の関係は特に険悪ではなかったけど、いい想い出ばかりじゃないのも確かだよね。

子どもの頃の私は病弱で、あなたに心配ばかりかけていたと聞いている。

思春期になると生意気で傲慢で、あなたを見下す娘になっていた。

自分の中の正体不明の怒りや鬱屈をあなたにぶつけ、ずいぶん暴言を吐いたし、一度は暴力を振るったこともあった(弾みとはいえ、突き飛ばした母が脚を切って流血したのを見て恐れをなし、二度と手は上げなかったが)。

大人になってからは、「素敵な男性と結婚して、いい奥さんになって、可愛い孫を産んで欲しい」というあなたのささやかな期待をことごとく裏切った。

離婚はするし、二度目の夫はゲイだし、子どもも産まず、犯罪こそ犯さなかったものの社会的規範から逸脱した行動を繰り返し、しかもそれを逐一エッセイに書く「世間に顔向けできない恥さらし」の娘になった。

現実の「典子」はそんな女だったけど、あなたの中の「典子」はどんな娘なの?

どんな性格で、どんな人生を歩んでいるの?

その「典子」は、あなたの自慢の娘なの?

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