女王様のご生還 VOL.112 中村うさぎ

先日のメルマガオフ会で、「女子高生コンクリート殺人事件」についてどう思うかという質問をいただいたのだが、時間がなかったのでメルマガで書きますねとお約束した。

なので今回は、その話です。



あの事件は私も鮮明に覚えている。

女子高生を拉致監禁して集団でレイプしたり殴ったりライターの火で炙ったりして痛めつけた挙句、「人間サンドバッグ」と呼んでみんなで腹を蹴ったりしたら死んでしまったので、コンクリートに詰めて遺棄したという凄惨な事件だ。

監禁されていた家には少年の両親も暮らしており、何が起きているのかを知っていたものの、息子の報復を恐れて通報もできなかったという。

しかも、主犯以外の少年たちは「少年法」に守られて厳罰を免れ、今では鑑別所を出て家族を持ち普通に暮らしているらしい。



少年法の是非が問われた事件でもあり、あまりの残虐性に世間が怒りに燃えた印象的な事件だ。

殺人事件が起きると断罪するより犯人を理解することに執着してしまう私も、さすがにこの少年たちは理解できなかった。

こいつらに比べれば、まだ連続殺人鬼の方が少しは理解の範疇内にある。

それくらい、彼らは「人でなし」である。



この事件を取材したルポルタージュ本も読んだのだが、その中で特別に記憶に残っているエピソードがある。

犯人のひとりが法廷で号泣したというくだりだ。

べつに己の罪を悔いて泣いたわけではない。

家庭環境についての質問に答えていた時、自分がものすごく好きだった女子との交際を親に禁じられ、無理やり引き裂かれたという話をしている最中に「激しく泣いた」(と、本の中には書かれていた)のである。



未成年者が親から交際を禁じられて引き裂かれるなんて、よくある話である。

そりゃ傷ついただろうし悲しかっただろうが、何も法廷で号泣するほどの不幸とは思えない。

自分が女子高生にやったことの理不尽さや残虐性に比べれば、蚊に刺されたほどの痛みではないか。

だが、彼はその傷をいつまでも引きずり、親に対する怒りを溜め込んでいたのである。



「私の痛み」「私を傷つけた者への恨み」が何より重要であり、自分が他人に与えた痛みや苦しみには無頓着、というこの幼稚な精神構造。

これは、彼に限ったものではない。

自分が被害者であることを強く訴えるくせに、一方で自分が加害者でもあるという事実にはまったく無自覚という人間は、この世にごろごろいる。

人間はみな、誰かの被害者であると同時に誰かの加害者でもあるのだ。

それが「社会」というものではないか。

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