アニメの珍味 第14回「動体視力とサンプリング・レート」

※2002年7月10日発売号の原稿です。

《前説》

 もう夏ですね。SF大会、コミケットとイベントもあるし、『スター・ウォーズもやってくる。映画もアニメも盛りだくさんで、夏らしい夏になりそうです。今年こそ、夏らしい余暇を持ちたいものです(笑)。一方、6月末で今年も半分終わったと思うと、年末までの仕事スケジュールなど考え始めちゃったりして。いわゆるワーカ・ホリック(仕事中毒)というやつですか。本人は面白いからやってるだけなんですが……あ、だから中毒なのか(笑)。

●アニメ鑑賞と動体視力

 アニメーションって面白いですよね。でも、その面白さはどこから来るのか、何がどう刺激されると面白いのか、意外にわかっているようでいて、何もわかっていない気も常々しています。そういう根元的なことを考えること、それ自体もアニメの面白さ、味のひとつなんでしょう。ということで、今回は「動体視力」をとっかかりに考えてみたいと思います。

 動体視力とは、動くものを見るための視力です。スポーツ選手では、球道を追ったり相手のパンチを見極めるとか、重要なものですよね。インターネットで「動体視力」を検索すると予想以上に多くヒットしました。75歳以上の高齢者の免許更新に動体視力検査が義務づけられている事実は初めて知りましたし、動体視力で脳を訓練する本があったり、「動体視力占い」なるものまであったりします(笑)。

 アニメが動きのある画面で表現をするものであれば、その動きをどう観て楽しむかということと、「動体視力」は大いに関係のあると思います。どうしてこういうことを考え始めたかというと、アニメーター出身の監督にインタビュー中、いかに集中して画面を見るか、動体視力の話題になったからです。そのときの話題はたとえば映画を観ていても、職業柄映像中の変化に敏感なので、劇中に何箇所のサブリミナルがあるか発見できて、2回目には「ここにある」と意識さえすれば、何が映っているか、はっきり見えるというものでした。

●サブリミナルの効果

 映画は1秒間に24コマの写真が連続投影されるものです。これは基本的に残像現象を応用して、本来は断続した写真が残像という錯覚で連続性と誤認識されているものなのですが、この錯覚中の連続に違う要素を忍ばせることで、「サブリミナル効果」を産み出すことができると言われています。

 サブリミナルとは、「無意識」または「閾下」と訳され、表だって認識できないものが、人の潜在意識に働きかける現象一般のことを言います。ゆえに写真や音のサブリミナルというものもあるのですが、なんと言っても有名なのは映像の場合です。私がこれを知ったのはNHKでやってたころの『刑事コロンボ』、「意識の下の映像」という回からです。そこで紹介されたのは、1960年代のアメリカにおける映画館の事例でした。館主が映画の中に断片的にポップコーンやコーラを飲みたくなるメッセージを入れたら、上映終了後に観客が売店に殺到したというものです。

 私自身もこのサブリミナルを鑑賞中に気づいたことがあります。ダスティン・ホフマン主演の『卒業』という映画に主人公が年上の女性に誘惑されるシーンがあるのですが、テレビ放映を録画で観ていとき、何だかチカッと光った気がしたのです。さっそくコマ送りしてみると、その部分には女性の乳首のアップが数コマ挿入されており、それがこれから展開する情事の暗示となっていたわけです。

 サブリミナルについては、学術的には古くから研究されているものの、決定的な効果の検証は、いまだなされていないようです。一方では、放送基準等において身体への影響の可能性がある映像手法ともされています。その是非を論じるのは今回の趣旨ではないので深入りしませんが、重要なのはそういった数コマの変化も知覚する人間の感覚です。

 もともとそういう錯覚がなければ映画もアニメも成立しないわけですが、連続した映像の動きが「意識」としてインプットされるとすれば、その断層・断絶が「無意識」にインプットされ、深層心理に影響するという図式は非常に興味深いことでもあります。なぜならセルアニメは手で描いたもので、特別なカットでない限りブレは描かれませんし、どんなにがんばっても、すべて不自然なものの連続とも言えますから、実はどんな動画と動画の間も断絶していて、アニメの動きとは無意識に訴えるものなのかもしれないからです。

 このように、無意識の集積が意識に昇華していくという、ちょっと矛盾した印象の中に、何かスリリングな秘密があるかなと、直感的に思ったりするわけです。

●アニメの中のいたずら書き

 さて、コマのサブリミナルとは少し違いますが、同じような無意識への働きかけに、アニメーターのいたずら書きというものがあるのではないでしょうか。

 アニメーターは、日々撮影シートとにらめっこしながら、ヒトコマ単位でどんな絵を描き、どうコントロールするかという、デリケートな作業をしています。これは、現実の世界に見られる混沌としたものをアニメーターの感性で整理、抽象化し、人手を媒介として画面に表すことに他ならず、カオスからコスモスを抽出する境界をどこに入れるかが勝負の仕事です。だから、画面の中にはつい「これは見えるのか見えないか?」という境界ギリギリのお遊びを忍ばせたくなるような、非常に敏感な感性を持っているようです。

 私が画面の中に潜むアニメーターのお遊びを最初に意識し発見したのは、1972年12月に東宝系で公開された『パンダコパンダ』です。これは高畑勲監督、宮崎駿原案の作品で、『アルプスの少女ハイジ』から連なる後の名作アニメのルーツとなった佳作です。

 この映画の冒頭で、主人公のミミ子が駅におばあちゃんを見送りに行くシーンがあります。この場面で、引きセルで電車がフレームインしてくるカットがあるのですが、劇場で「あれ? ルパン三世がいたような」ということに気づいてしまったのです。また、映画の終盤、動物園に戻ったパンダ親子が群衆の前であいさつをするシーンで、カメラがPANすると、オバケのQ太郎や『ど根性ガエル』のキャラクター、そしてまたもルパン三世を発見したのです。

 当時もう小学生ではありませんでしたから(笑)、アニメーターという職種があることは知っていましたが、「なぜルパン?」と思いつつ、それからかなり経ってアニメファンになってから、Aプロというつながりがあることを知って、強烈に腑に落ちたものでした。パパンダの読む新聞にもパンダ脱走の写真が描かれてますが、こっちはちゃんとした伏線ですね。

●サンプリング・レートの問題

 こういった話をすると、キーワードはやはり動体視力に行ってしまいがちなんですが、最近ではもうちょっと抜本のところに何かある気もして来ています。飲み会で馬鹿話をしているとき、私がアニメや特撮の細かい話をして「ビデオデッキなんて不要じゃないか」とののしられたり(笑)、カラオケも「わざわざ声まで物まね調で歌うことはないのに」とバカにされたりするのですが(笑)、こういったこと全部を自己分析してみると、サンプリング・レートの問題じゃないかなと、思うようになったわけです。

 サンプリング・レートとは何かというと、同じ時間の中でどれだけ細かく情報を取り出すか、というものです。例えばコンパクト・ディスクはピットと呼ばれる凸凹のデジタル信号で録音されています。これはもともとはPCM(パルス・コード・モジュレーション)という方法でアナログ音をデジタルに変換したものです。音信号の波の高さを、1秒間に4万4千回計測してデジタル化していますが、このときサンプリング・レートが44キロヘルツと言うわけです。

 なぜ44キロかというと、だいたい20キロヘルツまで保証すれば人間の耳に聞こえる範囲の音がカバーできるからで、その2倍のレートでサンプルすれば良いという量子化定理によるものです。これがどれくらいのものか、比較対象として有線の電話を挙げましょう。電話では百年以上前に決められたスペックに基づき、高域をカットして4キロヘルツを上限にしています。これはデジタルでも同じですので、電話の音のサンプリング・レートは2倍の8キロヘルツです。そして8ビットでサンプリングしています。つまり毎秒8千回ずつ8ビットでサンプルしてますので、かけ算すると6万4千ビット、つまり64キロビットとなります。だからISDNのデジタル信号は、同じパスを使うので64kbpsなんですね。PCMは非圧縮なので、このレートの差がそのまま音質の差になるわけです。

 つまりこのアナロジーから言えることは、アニメを観る場合でもサンプリング・レート、つまり1秒間に取り込む情報の量の差が、結局は観察力の差になってくるわけで、もしかしたら鑑賞の質の差にもつながるかもしれない……そんなことをおぼろげに考えているわけです。もっと簡単に言えば、観察力を高めて集中して観ていった方が、人生の時間の総量が限られているとすれば、面白く生きる上でお得なんじゃないかな、と思うようになったということです。

 動体視力で脳の訓練の本、なんてのもきっとそういうことが書いてあるんじゃないでしょうか。時間も空間も資源も限られているというのならば、人間の脳内潜在能力の開発、覚醒みたいなことは、21世紀これからのテーマかもしれないですね。

【2002年6月27日脱稿】初出:「月刊アニメージュ」(徳間書店)